上を見ると効率が良いか、それともやる気が無くなるか

唐突だが、何かをはじめる際には一度てっぺんを見ておくと効率が良い。
ゲームで例えよう。
シューティングならまず「HARD」でプレイする。そしてその後で、「EASY」に設定する(そこから本腰を入れる)。RPGなら、弱い段階でボスに挑戦し(即死)、その後レベルアップを経て復習する、というやり方だ。
これは学問にも適用される。ぼくの場合、数学の勉強にこの方法を使った。
数学の教科書には、単元ごと最後に応用問題があるが、一番にそれを解いてみる。解けたらその単元は終えて次の単元に行けば良い。解けない場合(普通は解けないのだが)、唸って考える。しかし多くの場合、いくら考えても解けない。そんなことをしても意味がないと思うかもしれないが、しばらく考えていると「わからない!」と叫び出す(あるいは鉛筆の芯が折れる)ので、その症状が現れたら、単元を初めから(あるいは終りから遡って)学ぶのだ。この方が、単元の初めから漠然と勉強するよりも、応用問題を解くという目的がある分、格段に学習効果が上がる(時間をよけいに消費している恐れもあるが、この方が楽しいので無駄ではない)。
この法則が当てはまるのはゲームや学問だけではない。スポーツでも、強いチームと戦うと経験値が増えると言われている。
しかし一方で、あまり上を見てしまうとやる気がうせる、と言う人もいる。そう言う人はたぶん、それを楽しみにやりたいのではなく、その分野で上に行くことが目的なのだ。
いや・・・というよりも、必ずしも上に行くことが目的ではないが、自分よりも「明らかに」レベルを上回るものがある(しかも沢山)というのを知った時、自分のしていることがくだらないことに思えてしまうのだろう。これはつまり、「くだらないことだと思われてしまうと思う」、ということだ。
評価を楽しみの源泉としている場合に起こる現象である。例えば日記サイトを楽しみとして運営する場合、コメントが帰ってきた時初めて楽しみ成分が脳内で炸裂するという寸法だ(1人で喋っているとこういう方向に話が進みやすいが、とりあえず止まるまで走ってみる)
しかし、その種の楽しみ方は色々と難しいのではないか、と思わざるを得ない。と言うのも、趣味の分野でそういう種類の評価を求められることが何度かあったが、相手が満足する返答をしてあげられたことは無かった(と言ってもごく僅かであり、ほとんど無視してもいい数だが。しかしそんなことでも何故か放っておけないということがある。たぶん世界平和を求めているのだろう)。
つまり、趣味は自分の中で完結するべきだ。こう言った場合、「趣味は自分の中で完結した方がいいと思うなぁ、ぼかぁ」という意味である。ものの道理や世界の真理を言い当てているわけではない。ブログや本に書いてあることをうのみにしてはいけない、という警告でもある(大人は偉くない、という意味でもある)。


話が確信犯的にずれまくっているが―――上を見てやる気をなくす、という現象が悪いわけではない。むしろ健全である。上を見てやる気を無くした時、自分はそれを評価が欲しくてやっていたのだ、と気付くだろう。小さな世界でそれなりの評価を得るため「だけ」にやっていることは、すぐに頭打ちになる。つまり、先に退屈が待っている。上を見てやる気を無くすか無くさないかで、その判断がつくのである。
とは言っても、やっているうちに気が変わってくることもあるし、つまり、かなり初めの段階からてっぺんを見てやる気を無くすという状態が、不本意になる場合もあるかもしれない。なんだかデリケートな話題に首を突っ込んだような気がするので、このあたりで引っ込めておく。
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このあたりの話題についてすでに高レベルの議論がされていることを懸念し、途中で検索などは一切しなかったことを付け加えておく。