善行善行と言うが、善行って、何かね?

偽善という言葉がある。あまり印象がよくない言葉だ。「趣味は偽善です」とか「三度の飯より偽善がすきです」なんて言ったら、人格を疑われそうな気がする。誰かに親切にしてあげても、「どうせ偽善なんだ」と思われるだろう。
辞書で「偽善」を引いてみたら、「本心からではない、うわべだけの善行」とあった。なんだ、善行ではあるのか。なのに偽善は印象が悪い。一体どういうことか。
動機が不純だからだろうか。しかし、善行を行なう本人ならともかく、善行を受ける側や全く関係のない第三者にとって、動機がそれほど重要だとも思えない。
例えば、お金儲けだけを目的に小説を書いている作家がいるとする。というか、実際にそう公言している作家を知っているが、ぼくは彼の著作が好きなのでそういう動機を知ってからも読みつづけている。面白いからだ。逆に面白くなければ動機がいくら崇高でも読まないんではないか。「印税は全部『ことり募金』に寄付しています」、なんてうたってるミステリィ作家がいたとしても、トリック暴きが「実は彼の引出しをあけるとタイムマシーンが・・・」とか「さぁこれを見てください。四次元ポケットです」のようなものだったらだれも読まないだろう。

少し例えが悪かった。もともと、仕事というのはお金のためにやることだ。偽善もへったくれもない。こういう暴走はよくあるので注意したい。
「うわべだけの善行」とは一体どういう善行なのか。果たして善行か。そういうことから考えていこうと思う。誰もここまで読んでいない気もするが、あまり余計なことは考えず勝手にさせてもらう(その方が双方のためであろうということはさすがに察しがついている)。
えへん(セキ)。
「うわべだけの善行」とは善行を装った行為のことだろう。おもに「善人と思われたい」という動機で「善行のようなこと」をする、そんな行為のことである。偽善が非難される理由はここにある。つまり、偽善は動機がどうのこうのではなく、結果的に「善行ではない」のだ。にもかかわらず、善人としての評価を求めている。非難されないわけが無い。
なら善人としての評価を求めつつ善行を行なった場合どうなるのか。プラマイゼロだろうか。善人としての評価を求めず善行をした時やっと、善人という評価をもらえるのだろうか。求めない時に人にだけ与えられる評価なのだろうか。つまり、与える人のためにある評価なのだろうか。
オチを考えないと一切まとまらないということが今回分かった。まぁ今回はこれくらいで、善人だけに堪忍してもらうということで。