懐かしい、とはどういうことだろう


 先日『爆笑問題のススメ』で太田光が子供時代の話をしていた。仲の悪い友達と1日遊んでみたらめちゃくちゃウマが合い、それ以来2人で馬鹿なことばかりをして遊んだ、という話だ(そしてその頃が人生で一番楽しかった時期だという)。実はこの話は、ぼくと村田君の間にもぴったり当てはまる。少なくとも、ぼくだけはそういう認識を持っている。
 村田君とは初めは仲が悪かった。否、ぼくが一方的に村田君を嫌っていた。いけ好かない奴だ、と思っていたのだ。それがどういう訳か、一度他の友達を交えて村田君と遊んでからは、村田君とばかり遊ぶようになった。
 12歳を過ぎたあたり(思春期である)から、ぼくらはしてはいけないと言われることをするようになった。いわゆる「悪いこと」だが、ぼくらの悪いことというのは、法律に違反したり警察やその他大勢の大人を敵に回すものではなく、身の回りの大人(親、教員など)やクラスメイトを敵に回すものだった。
 例えば、強制参加と名のつくもの(正確には強制参加風だが)に参加しない。大きいものでは体育祭、あるいは文化祭、小さいものだと応援練習や歌の練習、全てを欠席した。いや正確には、出たいときには出るが出たくないときは出ない、と言う姿勢を貫いた(それは授業でも同じだった)。それに加えて持っていたのは、参加しないことで被る己の不利益は了解しているという姿勢だった。
 2人でサボることもあったが、その時にはすでに1人でもそういう行動が取れるようになっていた。俺は俺だ、という変な自信があった。その自信があるうちに、しなければいけないことをしていたのかもしれない。確認しなければいけないことを確認していた、といってもよい(そしてそれがめちゃくちゃ楽しかった)。
 ぼくらはぼくらの損得感情があり行事に出なかったわけだが、クラスメイトはぼくらを非難する。そこで考えなくてはいけない議題がぼくらの間に浮上したのだ。
 何故彼らは非難するのだろう?
 団体行動がとれなくなるから?そんなことは教員だけが心配すればよいことでは?
 クラスメイトは言う「俺達だってやりたくないんだ」
 「やりたくないなら、やめれば?」
 「やらないとダメなんだよ」
 違う。そう決めているだけだ。決めているのは誰だ?君だ。何故そう決めた?そうする方が得だから。やらないよりやった方が良いと思っているから。つまり、そういう打算の結果、やりたくてやっている。
 ぼくらと同じではないか。

 ここまでが、ぼくらが当時考えたこと。
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 ここからは、現在のぼくが考えること。
 当時のぼくらはクラスメイトに甘えていた。舐めていた、と言っても良い。ぼくらは、ぎりぎり、完全に絶交されないラインを見極めて、彼らを傷つけていた(これも打算である)。
 彼らのことを、自分の理論を実証する道具として使っていたのだ。もうこんなひどい実験はしてはいけない。
 そう思うのは、自分がされたらいやなことは人にもしてはいけない、という自己保身ルールがぼくの中にあるからだろう。
 人を試すには、自分が試されるのを厭わない状態でないといけないのだ。何故かそういう約束ごとがある。ぼくはもう昔のように攻撃的な気分になることはあまりない(たまにある)。だからこうして、反省をしている。
 しかし一度(ひとたび)攻撃的な気分になれば、人を試すことを厭わないはずだ。のんびり無自覚に過ごしている人に、残逆的な気持ちで、質問を投げかけることだろう。その時のぼくは、これは性格のものだから仕方がない、と思うに違いない。そして割と正しいことをしている気分なのではないか。
 という風に分析できるまでになると、あまり正義の気分でそんなこともできなくなってくる。大人になるとはこういうことだろうか。
 正義などないと気付くのはこういう時だろうか。案外スケールの小さい所で気付くものだ。
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 昔のように、出す答え、もしくは確認することが決まっていることなら、終りは明確だった。足りない部分は補足するか、目をつぶるかすれば良い。
 今は何が欲しいのか分からないままに考える。思考をめぐらす。だから、何も手に入らない。終わりもない。
 外堀が埋まったという感触が掴めるか掴めないか、あるいは、霧が晴れたような感覚が手に入るかどうか。そしてその後に、外堀も霧の存在も曖昧になり、そんなものが元々あったのか、という疑問が一瞬発生した後、すべてが虚空に消える。否、それでさえ、消えたような感覚を持つだけである。
 消えたのかどうかもわからない。あったのかさえわからない。
 無いものを探して、手にいれる前に、失っている。

 つまり、どういうことか?
 「作っている」
 そういうことにしておく。