ブロガーとしての自覚はない

よく「自覚」の有無が問題視される。
①「彼はリーダーとしての自覚がない(だからダメだ)」
②「彼女は自分が美しいということを自覚している(だからダメだ)」
などがそうである。
①は自覚がないことが問題とされ、②は自覚があることが問題になっている。これにより、「自覚」はある方が良いとされる場合と、ない方が良いとされる場合があることがわかる。
「自覚」は現金やサバ缶のように、あればあるほど良い、無限にあると良い、蛇口から出てきて欲しい、といった単純な問題ではないようだ。

①以外で「自覚がないことが問題視される例」を挙げてみよう。

  • 社会人としての自覚がない
  • 主婦としての自覚がない
  • アイドルとしての自覚がない
  • 教師としての自覚がない
  • 物書きのとしての自覚がない
  • お金を落とした自覚がない

ざっと思いつくだけでも、これだけある。このように考えてみて初めてわかったが、自覚がないことについては、言おうと思えば何でも言える。すべての職業や役割(「社長」「黒板消し係」など)について言えるし、国籍にまで「日本人としての自覚がない」などと言える。他にも、生物単位で言おうと思えば、直立しないレッサーパンダに対して「レッサ―パンダとしての自覚がない」とも言えるし、自覚がないこと自体にさえ「自覚がないことへの自覚がない」と言うことができる。まるで言いたい放題である。「自覚がない」という言葉を使う人は、そのことを自覚しているのだろうか(このように言い返すことができることからも「自覚がない」という言葉がどれだけ言いたい放題かわかる)。
「自覚がない」という評価は、つまり「期待はずれ」ということなのかもしれない。期待さえすれば、どんなものに対しても「期待はずれだ」と怒ることができる(これも言いたい放題)。しかし「期待はずれ」と言うと、個人的な思いが通じないために怒っているように思われるので、より一般化して「自覚がない」と言うのだろう。


次に②以外の「自覚があることが問題視される例」を挙げてみる。

  • 悪いこと(犯罪など)と自覚しながら〇〇をした。


ざっと思いつくだけで、これしか思いつかなかった。自覚があることが問題視されるのは、どうやら悪いことをしたときのようだ(②の美しいことが罪なのは言うまでもない)。
1歳の子供などは、人のお菓子を食べてしまったり、物を壊してしまったりしても怒られないが、これは「1歳の子供には善悪がわからない(自覚がない)」とされているからだろう。逆に、20才を超えて人の持ち物を壊したりすると怒られるのは、それが「悪いとわかっていてやった(自覚がある)」とされているからだ。20才を超えた人は、ためしに公道へ出て、自分の車を破壊してみるとよい。ただちに警察がやって来て、壊しているのが誰の車だか判明したら、病院に連れて行かれるはずである。

子供(または頭が子供のままの大人など)は人に迷惑をかけた時、
「自覚がない分タチがわるい」
などと言われることがある。これは、悪いことは「悪い」と自覚することによりその抑制が効くが、自覚が無い子供にはその抑制が働かないため、そのぶん他人に迷惑をかけやすいという意味だろう。また、他人が注意しても子供ゆえその行為に対して「悪い」という自覚が持てないため、自発的に悪いことをやめさせる方法がない(どうにかして黙らせる方法はあるだろうが)、という意味であろう。
「悪いとわかっていてやるからタチが悪い」
と言うこともある。これは、悪いことをしている人が「悪い」という自覚をもってやっており、「悪いことだからやめろ」という注意が効かないということであろう。
しかし、どっちの「タチ」が悪いのだろうか。自覚があるほうが悪いのか、無い方が悪いのか(どっちも悪いことは「悪い」のだろうが)。たとえば、悪いとわかっていてやった犯罪は厳しく裁かれる傾向にある(計画的な犯罪、未必の故意など)。
逆に、0歳児やゴールデンレトリバーは人を殺しても殺人罪には問われない。これは、悪いという自覚が無いからである(殺人ですらない。事故である)。それにこれらは、可能性がかなり低いことだとも言える。ほとんどの悪いことは「悪い」と自覚せずにはできないのかもしれない。


幼稚園の頃先生に抱きついたりスカートの中に入ったりしても怒られなかったが、あれはたぶん善悪がわからない子供だと思われていたためであろう。だがしっかりわかっていたのである。まったく無自覚にそんなことをするはずが無いのだ。
つまり、こいつは許すな。

(これがオチだという自覚はさすがにある)