ヤモメ1

絵を描くのをやめたあたりから、俺の人生はなにもかもぼやけてしまったんではないか。ヤモメはそう思った。
ヤモメは絵を描くのが好きだった。家に帰ってくると、まず机に向かって、絵を描いた。描くものは何でも良かった。大半は、漫画を書き写したり、写真をみながら絵を描いた。稀に想像で絵を描いてみるけれど、あまり良くはなかった。ヤモメは、書き写すことで心地よい没頭の中に落ちていけることを、小さい頃から知っていた。
ヤモメは一時期、絵を描くことを習慣付けた。すると、絵を描くにはかなりの精神力が必要なことがわかった。それよりも前から、絵を描くと疲れることは知っていたが、特に気の乗らない時に絵を描くと、今ある集中力を、根こそぎ吸い取られてしまった。
しかしヤモメはそれで本望だった。ヤモメには、他に集中力を使う仕事なんてなかったのだ。ヤモメは毎日絵を描いて、頭がくたくたになってから寝るようになった。
いつしかヤモメは、絵を描かないと、寝れないまでなった。まだ一日の力を使い切っていない時は、遅くなっても、きっちり一枚絵を描いて眠るのがヤモメの決まりになった。
しかしいつからか、ヤモメは時々、絵をさぼるようになった。他にやることができたのか、というとそうではない。それなのに、絵をさぼった。ヤモメは本来、怠け者だったのだ。
そしてヤモメは、一人暮らしを始めた頃から、まったく絵を描かなくなった。そして今でも、ヤモメは一人暮らしを続けている。絵は描かないままだ。

ヤモメは、机が変わってしまったからだろうか、と思った。今机の上を占領しているものは、大学のテキストや、文庫本や、食器や、調味料なのである。昔は紙とペンしかなかった。教科書は机の引出しのずっと奥にしまい込んでいたし、本は本棚にあった。食器や調味料なんて、あるはずもない。
ヤモメは、少し努力して机の上を整理して、紙とペンだけ置いてみた。すると幾日は、絵を描くようになるのだが、しかしまた、いつのまにか、本当に知らないうちに、また元の机に戻ってしまうのである。


しかしヤモメは悩まなかった。これが今の俺の本来の姿なのだ、と思うようにした。机だけ変えてもだめなのだ。俺の頭が変わらないと、何も変わらない。そう思い込んだ。
だが、本当はそうではないこともわかっていた。ヤモメの生活を変えるのは、ヤモメの頭ではない。ヤモメの環境なのだ。机だけ変えても仕方が無いのは確かだが、ヤモメの失敗は、家や、友人や、所属などの、今ある生活を根本的に変えなかったことにある。
ヤモメは本来、怠け者なのである。ヤモメの周囲にある何もかもを変えなければ、ヤモメの生活は変わらない。それに気付きながらも、ヤモメは怠惰な生活をやめなかった。


やがてヤモメは大学を卒業して、働き出した。それでもヤモメは怠惰な生活を続けた。以前より、一層怠惰になった、とヤモメは感じていた。 毎日決まった仕事をして、お金をもらう。一般的に見れば、怠けているところは一つもない。しかし、まだ働いていない頭があるのに、それを使い切らずに寝てしまう生活は、ヤモメにとって怠惰以外の何ものでもなかった。
俺は何をやっているのだろう?そういう疑問が、ヤモメの中でしだいに大きくなり、やがて、無視できないまでになった。環境を変えるのは今かもしれない。怠け者のヤモメは、やっと動き出した。
動き出したヤモメは、はじめに、仕事をさぼった。今まで真面目に勤めた仕事(しかしヤモメにとっては怠けの一種である)を、遅刻してみたり、時には丸一日黙って休んだりした。怠け者のヤモメには、いきなり仕事をやめるのは無理だった。だから、向こうに「辞めろ」と言われるように仕向けたのだ。
しかし向こうは、なかなかやめろと言わなかった。もはや、仕事はヤモメ抜きでは回らないまでになっていた。向こうは、ヤモメに辞められるより、さぼりがちでも居てもらった方が良かったのだ。
ヤモメは、困ったことになった、と思った。こうなったら、とことん怠けるしかない。そして、怠けと怠けの攻防の結果、1週間連続無断欠勤を通したヤモメの怠けが勝利した。

「ヤモメ君、仕事やる気ある?」
「ありません」
「辞める?」
「辞めます」

といった電話のやりとりのみで、晴れてヤモメは仕事を辞めることが出来た。
仕事を辞めたヤモメは会社の寮を出て、ひとまずは、と、それほど離れていない実家に戻った。そこには、昔ヤモメが使った机がそのままの状態で置いてあった。
机に向かって心地よい没頭に落ちる。それがヤモメの願いだった。しかし、ヤモメは幾日経ってもそうしなかった。それどころか、机の上に文庫本や調味料などの物を積み上げた。いや、積み上げた気はなかった。しかし、ヤモメが気付いた頃には、すでにいらないもので机は見えなくなっていた。
すき間が無いくらい物でうめつくされているくせに、必要な物は一つもない。いらないものを捨てていくと、何も残らない。 やはり俺の頭がどうにかなってしまったのだ。ヤモメはそう思った。しかし、昔からそうではなかったか。頭の中でさえ、必要なものなど、一つとしてあっただろうか。
ここにいてはダメだ。少なくとも、ここにいてもダメだ。ヤモメは10日経って実家を出た。あてはなかった。だが、ヤモメの足は自然と一つの場所へと向いていた。
つづく