「旅は人生のようなものだ」

よく「人生は旅のようなものだ」と言うが、「旅は人生のようなものだ」というのも成立すると思う。
ぼくはよく旅をする。ここで言う旅とは、行き先や目的などの計画を一切立てずに外出する行為を指す。なので、極端なことを言えば、近所のコンビニへ行って食パンを買って帰ってきた、という行為だけでも、旅の場合がある。だがその場合、食パンを買った時点で旅が終わっている可能性が高い。少し抽象的な話をするが、この場合、終わらせようとして終わるのか、なんとなく終わってしまったという感じなのか、よくわからないが、どちらにせよ結果的に「これから家に帰る」という予定が立ってしまう可能性がかなり高いため、「それはもう旅ではない」という評価を下している。
だがパンを買うまでは旅である。これから、何時まで、どうやって、どこに移動するのか、何をするのかなど、いくつも可能性が残されているからだ。何処にいこうか、または何をしようかを考えながら(「何処にいって何をしよう」というのはあまり無い)、また、考えずにぼんやりと歩いたり自転車を漕いだり電車に揺られてみたりしながら移動するのが自分にとっての旅だ。


別に気取って「予定を立てたら旅ではない」と言っている訳ではない。予定を立てる、ということ自体を否定している訳でもない。「訳ではない」と断わっても、どういう訳でそういう訳ではないのか説明したことにはならないが、説明する力も無いので、たんに、計画性のある旅を楽しむのがヘタな者の負け惜しみだととってもらって良い。これも別に、「無頼だ」と格好をつけている訳ではなく、予定を立てただけでその後の行動や思考に強い規制を働かせてしまうという点で、むしろ「格好が悪い」と評価した方が適切だと、自分のことながら思う。
予定を立てても予定外のことが起こるのが旅や人生なのに、それを楽しむ余裕が無いのだ。人間が小さい。そのためにわざわざ計画性を排除した旅を意識的に行なわざるをえない、という感じ。しかも1人で。これは、2人以上でいると何をしても自分の意志でしているような気になれなくなり、一切を楽しめなくなるためである。


旅をしている最中にこんなことを思う。
「何でこんな時間にこんな場所を歩いているんだろう」



もうだいぶ歩いた重い足をひきずって、特に行くあても無いのに歩きつづける。ぼくはそういうことをよくする。旅だと問題は無いが、人生でもそういうことをやろうとする。計画を立てずにその場任せで行く道を決めて、どこに行くのか、目的も決めずに、なんとなく歩いているという状態だ。
ぜんぶ、旅だと思えば良いのかもしれない。「何でこんな時間にこんな場所を歩いているんだろう」そう思って、時どきニヤッと笑っていればいいのかもしれない。でも笑えるのは、旅は、終わるからだろう。人生は特殊な例を除けば、自分の意志で簡単に終わってはくれないから、その点例外だ。
もう少ししたらたぶんわかるが、きっと笑えないのだと思う。今日の日記も笑えない。深刻なわけでもないけれど、ふざけてばかりだとバランスが取れないから、なんとなくこういうものを挿入しているという気もするし、全体的に、少し不明。