最近の記憶は曖昧だ

ぼくは幼年期のころの記憶がはっきりとある方だ。幼年から少年期にかけて、思い出を反芻することが多かったからだろう。だから憶えているといっても、反芻した記憶だけが今も残っているだけであり、それには偏りがあるはずだ。嫌なことより楽しいことを憶えているだろうし、事実を歪めた記憶も持っているかもしれない。それは人間の記憶の性質からしてそうなのだろうが、昔の事となると特にその傾向が強い気がする。
ぼくを含めて人間というものは、昔の事になればなるほど、憶えたいことしか憶えていないものである。「忘れたいことほど憶えている」という例もあるが、それはきっと、忘れたくないから憶えているだけであり、「煙草をやめたいのにやめられない」というのも、たんにやめたくないだけだろう。なのに「やめられない」という言い方がされるのは、「やめた方がいいとわかっている」というのと「止められる」ことがイコールで結ばれていないだけであろう。
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人間の記憶については色々な説がある。ぼくが憶えているのは、
「人間は経験した全てのものを記憶している。それを思い出せるか思い出せないかの違いで、憶えている・忘れた、という評価がされる」
という説だ。
この説は論破されることはない(少なくともぼくには)が、ちょっと迫力に欠けるのではないだろうか。まるで、サッカーゴールを11人で埋め尽くす(一度見てみたい。二度はいい)最悪でも引き分けにしかならない戦法のようだ。
というのも、この説では「憶えている」と「記憶している」の意味が違っており、「記憶はしているが、憶えていない」ということがありえることになっているのである。
なので、この説に対して「人間が全てのことを憶えているわけがない」という反論があった時は、「憶えてはいるのだ。しかし思い出せないことはあるかもしれない」と言えることになり、少なくとも負けることはない(少なくともぼくは勝てない)。
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しかしこの説も便利なものである。なんといっても、全てのものは「記憶」しているのだ。これからは、自分が何かを思い出せない時は「忘れた」という評価を下さず「記憶はしている」と言うことにしよう。
ああしまった。思い出せないことがあった場合、それを忘れているから思い出せないのか、ひょっとして見たことすらないのか、判断ができないではないか。見たことすら無かった場合、「記憶はしている」というと嘘になってしまう。どうしたらいいのか。
小さい声で「なんてね」と付け足すくらいしかなさそうだ。「忘れた」ことを認めるよりはましだからそうしよう。