苦節26年

苦節と屈折をかけて何か言えないかとか思ったがくだらなすぎるのでやめた。最近安易な会話ばかりしているから頭が悪い。そういえば今日、バイトの女の子とダイエットの話をしていて、「糖分」と「当分」をかけたら見事にスルーされた。いや、気づいてすらもらえなかったので、こういうのはスルーですらないだろう。何の話だ。
苦節26年の話である。最近では、就職が1つのポイントだった。新しい時代が来たなと思った。小学校入学ほどではないが。
新しい環境に踏み込んだ時の記憶というものは鮮明で、神経が張っているから普段は意識しないようなものまで憶えている。
就職活動を始めて幾日か経った頃、新潟駅で「ファンタスティポ」のPVが流れていて(堂本剛・国文太一主演映画の主題歌)、それが新時代を象徴しているような気がした。あの時はあれが新しかったのである。ちなみに、PVの方は良いが、映画は訳がわからないくらい最悪である。
これをテキスタエディタ紙に書いている今、自分は一体何を話しているんだ、と思う。このブログを更新する時いつも思うが、こんな話、ぼくの友達でもない限り聞かない。友達といっても2人くらいしかいないが、その中でも山君くらいしか聞いてくれないだろう。だからこれは、世界中の山君へ向けて書いているのだ。なんだか気持ち悪いが。
苦節の話に戻る。
ぼくの恋人が美人過ぎるのが悩みだ。この悩みが本物であるということが、どうにもならない。本当の美人は飽きないのだ。
初めて会ったとき、ぼくはこの人のことをずっと好きだ、と思った。自分の恋人になるならないに関わらず、そうであると思ったのだ。これは気持ちの問題ではない。冷静な判断である。だからどうにもならないといえる。
よくわからないだろうか?例えば、初めてツナマヨを食べたとき美味しいと思った、これは気持ちの問題だろうか?それと同じことである。ツナマヨは今も変わらず美味しいのだ。
でも今は毎日食べるようなことはせず、時々思い出したように食べて、やっぱり美味しいな、と思えるようになってきた。最後は下ネタで終わる。