危機感の時

最近のぼくは冴えないので、しばらく、刃を磨く旅にでます。

刃は毎日磨かなければなりません。 切れるようになったからといって安心していると、次の瞬間には、もうどこかが曇っています。
磨く先から錆びていく、そんな感じです。
使わないと、錆びたことにも気付きません。また、柔らかく切れやすいものばかり切っていても、そうでしょう。

もう、どうやって磨いていたのかも、覚えていません。いえ、きっと、磨くたびにやり方は違っていたのでしょう。そんなことすら、忘れてしまったのです。
忘れるはずです。 切るものが無いのに、磨けない。それが道理です。

この旅は、切るものを探す旅。つまり、なかなか切れない、一筋縄ではいかないものを探す旅です。そういうものに出会ったとき、自然と刃を磨いている気がするのです。
そういう「自然」に期待して、自分の力を信じて、何かにぶつかっていく。そういう積極性が、最近のぼくには無かったような気がします。 いや、そういう積極性を発揮する機会が無かった、と言った方が良いでしょう。
しかしたったそれだけで、刃なんか無くても生きていける、と思ってしまう自分がいる。一方で、それはとても危険なことだ、と思っている自分がいる。
なぜ危険なんでしょう。 また、刃は、何のために磨くのでしょう。
しかし、何のためでもなければ、磨けないものでしょうか。名目が無ければ、できないことでしょうか。それに、名目くらい、いくらでもつけられます。

そんなことを問うこと自体が、もう錆びている。そう判断できます。
磨いたら、切れ味が良くて、綺麗で、気持ちが良い。それだけしかない。本当は、それだけの意味しか無い。 それだけで磨けないなら、もうずっと錆びたままでいるしかありません。

そんな人生に、価値があるでしょうか。いえ、人生に価値がある、と思ったことはありません。また、価値が無いとも思いません。
価値があるのは、人生などというただのスパンではありません。そこに含まれてはいるものの、そういうスパンとは一切関係がない、ひらめきや、没頭や、集中などに価値があるのではないでしょうか。そんなもの、「人生」という期間とは無関係ですし、もちろん、「生活」とも関係がありません。

関係がないものなら見当がつきます。 では、何が関係があって、何が価値なのか。 つまり、自分と関係のあるものは何なのか、ぼくが価値と呼ぶものは何なのか。 その境界が曖昧になっている。これは危険信号だ。
だからぼくは旅にでる、
気持ちがある。