心配に使う時間

何か書こうと思っているのだが、何も思い浮かばない。たぶん、メモリのほとんどを、卒論が通るかどうか、という心配事に占領されているからだろう。
現在、書き終えた卒論を指導教官に渡してある状態だ(この状態は二度目だ)。赤が入るかどうかは、明日の朝分かる(赤が入った場合、どれだけ入ったかが分かる)。なので、こんなことは心配しても仕方がないし、心配しても仕方がないことを心配している状況は本当に不本意なのだが、どうにもならない。いわゆる「何も手につかない状態」だ。

何も手につかない状態でいる時は、基本的に無駄な時間を過ごしている。例えば、子供の帰りが遅いのを心配してみたり、分娩室に入った妻のことを思ってみたりしても、自分の力が及ばない領域に対してあれこれ考えているだけで、まったく意味がない(子供も妻もいないのに、「こんな状況になったらどうしよう」などと考えるのも時間の無駄だが、これは「何も手がつかない状態」とは区別される。単なる妄想である)。
だが、なぜそんな意味のないことをするんだろう、という疑問を持っているわけではないし、それに、本気でまったく意味がないと思っているわけでもない。あれは一応、心配事が悪い方に転んだ時のために事前にしておくフォローなんだろう。
しかしそれにしたって対効果を考えると無駄が多すぎるのではないか。そもそも、効果があるのかどうかも疑わしい。仮に、何か心配事があってもそれについてまったく心配しなかった場合(それで心配事と言えるのかという問題もあるが)、それが悪い方に転んだときに受ける衝撃は、ちゃんと心配したときとどれだけ違うのだろうか。
これについては、心配しなかったことがないので何とも言えないのが悔しいところだ。

とにかく、自分の力ではどうにもならない事については、「あす地球が爆発するかもしれない」とか「家に隕石が落ちてくるかもしれない」とか「肉を少なく盛られるかもしれない」などと心配してみても、結果にはまったく影響しないのだ。誰がどう心配しても地球は爆発したいときに爆発するし、爆発した時は諦めるしかないのである(この場合諦めなくても諦めるしかない)。
こんなことは誰でも理性では分かっているだろう。しかし、心配は分かっていてもやめられないようだ。現に今のぼくは、心配している時間は無意味だがどうしても心配してしまう、どうしたら良いのか、などと心を悩ませている。
人間である以上、心配からは逃れられないのだろう。どうせ逃れられないなら、心配する時は思いっきり心配してみようか。そう考えると、少しは楽になるかもしれない。

ぼくの母はすでにこの考えを実践しているのか、最近、「本当に卒業できるのか」という意味のメールを、いろいろな表現を使って定期的に送信してくる。