どこまでも用心深く


 目を覚ました途端、体の痛みを思い出した。全身、痣や擦り傷やだらけだ。筋肉痛も酷い。あれだけ動いたのだから、当然だ。しばらく休んだ方がいいだろう。どうせ動いたって、すぐに出られる訳じゃない。なんたってここは井戸の底だ。

 目の前には死体が転がっている。俺はこいつを殺した。殺される前に殺した。
 まさか本当に落とされるとは思わなかった。落ちながら、死ぬ、と思った。でも生きていた。井戸の底でうめいている俺を見て、あいつはすぐに降りてきた。井戸の上から弱った俺を見て、油断していたに違いない。だが、それはほとんど芝居だった。俺は十分に動けた。
 あいつが井戸の底に足を着いたと同時に飛びついた。あっけなく転がすことができた。倒れながらあいつは何かをわめき散らした。俺はそれを無視した。握っておいた石であいつの頭を殴った。手をめちゃくちゃに振り下ろした。憑かれたように、何度も何度も振り下ろした。すぐにあいつは動かなくなった。最後にできるだけ大きな石を選んで、あいつの頭の上に落とした。
 井戸に落とされたのは不覚だったが、俺は用心深かった。あいつは油断して、死んだ。
 それから1日が経過した。相変わらずあいつの頭の上には馬鹿でかい石が鎮座している。今見ると、自分が持ち上げたとは信じられないでかさだ。

 俺は今、井戸の底で死体を目の前にうずくまっている。上から見たら死体が2つあるように見えるだろう。なのに気分は悪くない。こいつが死んだことで、心配事が消えたからだ。あとはここからどうやって出るか、それだけを考えればいい。
 目的が一つに絞られたことで、他のことを考えずに済んでいる。思考がクリアで、とても気分が良い。もうずっとそんな状態に縁が無かった。まさか人を殺してこういう気分になるとは思わなかった、などと言うつもりは無い。いつだって、本当は殺したいのだ。殺してスッキリしたいと思っている。
 邪魔者を排除したいと思った瞬間浮かぶのは「殺す」という言葉だ。「ぶっ殺してやる!」と口に出すこともある。でも実際に殺すことはほとんど無い。何とか別の方法で排除しようと考えるだけだ。
 だが、「殺す」という言葉はどこかで存在しつづける。それをいつも意識しながら、見えないふりをしてやり過ごしている。

 考えるのをやめた。この状況にも飽きてきた。そろそろ潮時だ。
 俺は立ち上がった。足は――折れていない。なんとか歩けるようだ。そのかわり、胸の辺りがぎしぎし痛む。アバラが折れているかもしれない。ためしに力をこめてみると、鋭い痛みが走った。悲鳴をあげそうになるのを慌てて抑える。低い呻き声だけが漏れた。大きな声を出すと余計骨に響く、という判断だった。周りに声を聞かれてまずい相手がいるわけではない。隣にあるのは死体だけだ。そして、こんなへんぴな場所に人が来る筈がない。もっとも、人が通るような場所だったら、いくら骨に響こうが、とっくに声をあげていた。

 上を見上げると、小さな穴から黒い空が見える。夜なのか、それとも曇っているだけなのか、穴が小さすぎて判別がつかない。
 ほとんど何も見えない中、壁をまさぐってみた。縄梯子か、何かヒモのようなものがあるはずだ。
 何も無かった。あいつはどうやって降りてきたのだろうか。それがわからなければ、俺もここから出ることはできない。途端に不安が生じた。
 俺は壁をまさぐりつづけた。
 あった。一定の幅で、2列の出っ張りが上に向かって並んでいる。全ての出っ張りを一つの線で結ぶと、ジグザグ模様になる形だ。これに手と足をかけて、登り下りできるのだろう。
 出っ張りに手をかけてみた。登れないこともない、という感触だった。
 その時、雨が降り出した。
 出っ張りをつかんでいた手が滑る。中途半端な高さから落下する自分の姿を想像して背筋が震えた。雨が止むまでは登れない。
 だが雨は止まなかった。それどころか、ますます勢いは増した。
 膝まで雨が溜まった頃、このまま雨が降りつづけば体が浮いて、井戸から出られるようになるかもしれない、と思った。最初は疎ましかった雨だが、途中から、「もっと降ってくれ!」と祈ることになった。
 とうとう雨は胸まで溜まった。体が軽くなる。雨はますます激しさを増す。まるでシャワーを浴びているようだ。上を向くと息が苦しい。下を向いて、空気を確保する。

 首まで水が溜った頃、浮力で足が浮いた。その瞬間だった。俺の足を何かが掴んだ
 背筋が凍った。あいつが掴んだと思った。そんなはずは無い。すぐにその妄想を振り払い、強く足をばたつかせた。
 ぎゅうううう!!
 足を握る力が強くなった。痛みすら感じる。俺は泣きそうになりながら水に潜った。何かが絡まっているはずだ。それを急いで解かなくてはいけない。時間は無かった。水位は既に、口まで来ていた。

 あいつが足を掴んでいた。見間違いじゃなかった。心臓が変な音を立てた。
 足からあいつの指をはがそうとした。無理だった。
 あいつの指は、ほとんど食い込むように俺の足を掴んでいた。
 
 死ぬ物狂いの息継ぎ。水面から口だけが出た。空気と一緒に水も飲みこんだが、咳き込むわけにはいかない。すでに全身が水没していた。

 潜って、あいつを見た。馬鹿でかい石は、まだあいつの頭の上にあった。俺は俺を呪った。

 もう息が続かない。暗かった井戸の底が、一瞬、明るくなった。