結論、現状維持。

季節はずれな話だが、春は狂いやすい季節だと言われている。たとえば、春におかしな人をみると「春だな・・・」と言う。もしかしたら一年中おかしな人かもしれないのに、春にそういう人を見ると、春だからそうなんだ、と言う評価を下す。それほど春は狂いやすい季節だと思われている。

桜は春に咲く。そのせいもあってか、狂気の象徴だと言われている(たぶん)。たしかに、咲き狂っている桜を見ていると「どうでもいいや」という気分になってくる。
本当はどうでもよくないのだ。判断が、少し狂っている。この狂いは良い狂いか悪い狂いかというと、良い狂いだろう。抱えている問題を常に正しく認識するのは人間には少し辛いのだ。というよりも、正しく認識するために、一度どうでもよくする、という工程がある、という感じだろうか。

「正しく認識する」と言うのも、「適切に認識する」もしくは「適切に評価する」と言った方が良いかもしれない。少しひねくれてみれば、「都合よく捉える」と言ったところだ。何事も都合よく捉えてしまえば怖いもの無しである。就職なんて怖くない。貧乏だってへっちゃらさ。あまり深刻に、なるななるな。道ばたでうんこしちゃっても、大丈夫。

なぜ人間に「狂う」というシステムがあるのか、それを少しでも考えてみれば、道ばたでうんこをせざるをえない人もいるということが分かるはずである。それは少しもおかしなことではない。
同時に、道でお酒を飲む人、歌を歌う人、少しずつ狂っている。それは単に幅が違うだけで、あまり複雑な違いは無い。
みんな狂っているということはみんな狂っていないということで、これはつまり、「狂っている」という言葉がいらないということになる。そうすると困ることがあって、狂っている人を見かけたら、「あの人は特に狂っている」と言わなくてはいけなくなる。なので曖昧でも良いからある境界線を設けておいて、それを下回れば正常ということにし、上回れば狂人ということにしておく今までどおりのやり方にしておけば、とても楽である。