新聞のある生活

新聞をとりはじめて2ヶ月、なかなか集金が来ないなぁと思っていたら、昨日来て、しっかり1ヶ月分とられた(まるで盗まれたような気分だった)。まさか忘れてるんじゃないだろうな、できれば忘れていろ、と思っていたが、しっかり覚えていたようだ。考えてみたら、新聞を毎日配達しておきながら集金だけ忘れるわけがない(出勤日は忘れても給料日を絶対に忘れないのと一緒である)。
都合のいい希望的観測はいつも外れる。むかし家庭訪問の先生がなかなか来ないとき、「忘れているのかもしれない」「まさか急病になったのでは」「いっそ死んでくれると助かる」などと思ったものだが、そういう場合もただちょっと遅れるだけで、結局は来るのだ。



えらいもので、2ヶ月も読んでいると新聞にもパターンがみえてくる。今では「昨日はページ多めだったから今日は少なめだろう」「最近広告が少ないから明日あたり沢山くるはずだ」「今日の日付は5月26日だから、今までの法則にのっとると明日は5月27日だろう」などということが予想できる。
情報の取捨選択もできるようになってきた。以前はページ全てに目を通していたが、しだいに自分にとって本当に必要な情報とは何かを判別できるようになり、読む必要の無い部分をとばすようになった。稀に(2日に1日ほど)必要な情報が全く無い日もあるが、それでも、必要な情報が無いということが確認できる(それかページをめくる練習だと思えばよい)。
それはそうとして、新聞は高すぎやしないか。一部100円以上する。インターネットで無料のニュースが読めるようになった現在、この値段設定はどうなのか。この100円はマックシェイクやサバ缶、1円切手100枚などに回すこともできるのだ。そうされたくなかったら、一刻も早く値段を見直したほうがいい。それか、毎回サバ缶をつけてほしい。