選択肢は多いほうがいいのか?

ぼくがそうであるように、多くの若者は金を持っていないが(持っている人がいたら許せないが)、その代わりに可能性を持っていると言われる。
たとえば5歳の子供なら「無限の可能性がある」などと表現される。確かに、5歳から練習を始めれば野球選手になるのも夢ではないだろう。ほかにもサッカー選手やピアニストや肥満児など、5歳からなれるものは枚挙にいとまが無い。「柴犬になろう」などと思わなければ、努力次第でなんにでもなれるのである。
それに比べ、21歳のぼくは5歳児ほどの可能性は持っていないから(5歳児ほどの知能は持っているが)、今から頑張っても、せいぜい医者か弁護士か、良くて総理大臣くらいにしかなれないだろう(それか、どれにもなれないだろう)。


「年は関係ない、21歳だって努力次第で何にだってなれる、サッカー選手ならなれるんじゃないか」
と言う人もいるかもしれない(特にサッカーを知らない人など)。
確かに、ぼくがこれからサッカー選手になる可能性はゼロではない。だが、持っている可能性と年齢の間に関係が無いとは到底思えない。たとえば、ぼくがこれから子役として活躍するのは無理である(どの分野だとしても「活躍」するのはたぶん無理である)。
それにお年寄りのことを考えてみれば、年齢と可能性の関係を感じずにはいられない。いくら老人が上手にサッカーボールを操っていたとしても「将来プロになるに違いない」とは誰も思わないはずである。これが5歳の子供なら、ちょっとサッカーに興味を示しただけで、親の手によってサッカーチームに入れられてしまうのだ。


年をとると可能性は減っていくが、一概に悪いところばかりではない。可能性(選択肢)がありすぎて困ることもある。初めて入ったラーメン屋のメニューが15あり、さらにトッピングが6種類あり、さらに麺のゆで方が3種類あった場合、パニックに陥らないという人はいないと思うが、これが「しょうゆ」と「みそ」の二種類であったなら、迷うことはない。たとえそれが美味しくなかったとしても、お腹は満たされるのである。
人生の可能性(選択肢)も、「自分はピアニストになれる、歌手にもなれる、俳優にも、画家にも、小説家にもなれるしお金持にもなれる」などと思っている間は可能性に翻弄されるが、「これらには絶対になれない」と確信することで、落ち着けるのではないだろうか。
ぼくはまだ確信できない。
仮面ライダーブラックになれる」と思っていた頃よりは落ち着いている気がするが。