就職活動日記「長野で想う」

また面接のために長野に来た。これで長野は2回目だ。「二度あることは三度ある」という格言に従えば、ぼくはまた長野来るだろう。しかし、一体だれが何の根拠でそんなことを言ったのだろうか。こんな格言は、「10円あれば1万円ある」と言うのと、根拠の無さではなんら変わりはない(嬉しさでは天と地、月と犬の鼻毛ほどの差があるが)。無根拠に言っていいなら、何だって言える。「冷蔵庫の中には肉がある」と言ってもいい(サイフや冷蔵庫は中を確認すれば、無いことが即座にわかるという点で格言と異なるが)。
二度長野へ来たからといって、三度目があるとは限らない。二度の面接に合格したからといって、次の面接にもクリアできるとは限らないのである(これは経験によって知っている)。
それにしても、面接はなぜ3回なのだろうか(3回するところが多いのだ)。なぜ4回ではないのか、と言っているわけではない。なぜ2回、できたら1回、それが無理なら、なぜ面接無しで合格させてくれないのかと思う。こう何度も面接をさせられると、せっかくうまく騙したと思ったのにまた話さなくてはいけないのかとイライラする『刑事コロンボ』に出てくる犯人のような気分になってくるのでやめてほしい。
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やっぱり長野は都会である。長野駅前の噴水に腰掛けながら、通りを眺めてそう思う(気づいたら背中が濡れていた。周りに誰も座っていないのをみるに、ここは人が座る場所ではないのかもしれない。唯一、ハトが水浴びをしている)
しかし、長野駅周辺の座る場所の無さには困る。これはぼくの思い込みではなく(珍しく思い込みでないケースだ)、実際、駅の待合室は満席だ。仕方なく階段に腰掛けている人も多い。それに対して、ハトがくつろぐ場所はいくらでもある(噴水、地面、屋根、駅の待合室など)。特に長野駅前などはハト天国(ハト天下)になっている。ベンチはハトのトイレになっているし、水浴び用の噴水もある。なぜここまでハトが優遇されているのだろうか。もしかしたら、長野市民がハト好きなのかもしれない。それか、実はハトなのだろう(そうとでも考えないとこの状況が理解できない)。
長野市はいずれハトに乗っ取られるかもしれない。ふと視線を横にやると、バス停の椅子も、人が座るよりハトの社交場になっている。ハトがバスに乗るようになる日も近いだろう。そうなったらいよいよ危ない(ハトがバスを運転し始めたら手遅れだ)。
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ハトのことを考えるのをやめ、長野駅周辺で書店を探すことにした。といっても、まるで見当がつかないので、駅前でビラ配りをしている女性に尋ねてみた。
「すいません。この辺りで大っきい本屋さんありませんか?」
すると女性は異常に丁寧な口調で(まるで年寄りにでも接しているように)、長野駅正面の建物を指さしてこう言った。
「ここの2階から上が平安堂という書店になってます」
探し物はすぐ目の前にあったのだ。こういうことはよくある。目的地まであと2,3メートルというところで「〇〇はどこですか?」と聞いてしまうことだ。聞かれた人はたいてい呆れ顔である(「今は西暦何年ですか?」と聞いても同じ顔をされる気がする)。
すぐそばにある(というより、すでにそこに居る)目的地を見て、自分でも呆れるくらいだ。なぜこれが目に入らなかったのだろうか。たぶん、「探し物は見つからない」ということを学習してしまっているからだろう。それにしたって、目の前にあるのに見えないというのはおかしすぎる。何かの病気かもしれない(「探し物不可視病」などという病名があれば安心なのだが)。
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最後に、肝心の面接について語らねばなるまい。今回、役員6人を相手にして、最終的に、社長に頭を抱えられる結果となった。他の5人は目をつぶっていた。
この反応を好意的に捉えると、
「あまりにもいい人材だが、どうやったらうちの会社に入ってくれるだろうか。ううむ」
となるが、
「どうしてこんな奴を最終面接まで残したんだ」
という意味にもとれ、しかもそうとしか思えないところが、唯一悔やまれる。
面接会場を出るときも、なぜか人事部長に肩を叩かれた。これは残念ながら、
「がんばって。二度と会うことはないだろうけど」
という意味にしかとれなかった。
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三度目の長野は無い。ちなみに交通費は頂いた。面接の前にくれるシステムでよかった。