ああ、そのカンね。

誰にでも「勘違い」する時があるだろう。無いとは言わせない。仮に言っても、認めてあげないんだから。
「勘違い」とは間違って理解することだが、基本的な話をすれば、何が真実かを定義することが不可能な事柄については、常に全ての人が「勘違い」をする可能性がある。
というか、真実が定義できないんだったら、それを間違って理解しているかどうかも真には分からないので、「勘違いしている」と言うこともできないはずであり、言ったとしても、
「真実がこうだと仮定すると、あなたは勘違いしている」
という言い方しか出来ない。何が間違いかを決めるためには、正解を決める必要があるからだ。
「何をもって美しいとするか」が常に流動する、容姿の評価などもそうだろう。
「あなたが醜いと仮定すると、自分のことを美しいと思っているあなたは、ひどい勘違いをしていることになる」
こんな言い方をすることはまずないだろうが。
それに、こんなことを言った直後は、身体的危機が訪れそうな予感もする。ぜひ逃げる準備をしてから言いたいものである。準備運動をしてから言うとか、自転車に乗りながら言うとか。または車を運転しながら歩道に向かって言えば、たぶん大丈夫だろう。それでも心配な人は、崖の上から飛び降りる瞬間に叫べば安心である(確実にあの世にいける高さから落ちるのが重要だ)。
しかし普通容姿について言うときは
「ちょっと勘違いしてるってかーんじー」
とでも言うものである。はたから見ていると、言っている方も結構勘違いしているものである。
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一方、何が真実か決まっていることに対しても、勘違いをすることがある。これは、指摘された時に言い訳がきかないという点で腹が立つが、一度わかれば二度と間違わないという点ですっきりしている。
「Aだと思っていたものが実はBだった」「Fだと思っていたことが驚くことにTだった!」などがそうである。これで「へぇーそうなんだ」と納得してくれる人がいたら実に物分りのいい人だろうが、なぜか本当にいたら頭にきそうである。
作家の高村薫は女性であるが、ぼくはずっと男性だと思っていた。これは明らかに勘違いである。そういえば、2階にあると思っていた研究室が実は3階にあった、ということもあった。これも確実に勘違いなのだが、3階にあると気付く以前にも、しっかり研究室へ行けていたのが不思議である。勘違いしていると思っていることすら勘違い、という恐れも出てきた。
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「そりゃあアンタ、お門違いってもんでしょう」
なんていうセリフを思い出したりね。意味があるわけが無い。
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勘違いは、気がつけばなくなるものである。今まで全力で勘違いしているような人でも、ハッと何かの拍子に、自覚する事があるだろう。その時勘違いの火が消える。
それは「勘違いが鎮火」ということであろう。「かんちがいがちんか」である。
ところで「しんぶんし」は逆から読んでも「しんぶんし」であるが、これはとても面白いことなのではないだろうか。ぼくはとてもそう思う。