メシの恨みは怖い

心が狭くなる時がある。助言を素直に受け止められない。
たとえば、
「うまいの食ったことある?」
と言われて、相手に殺意を抱くような場合がそうである。

ぼくがどうしてそれを言われたのか、たぶん、何々の食べ物が嫌いだ、とでも言ったのだろうが、よく思い出せない。ただ、その時抱いた殺意だけが心に刻まれている。今考えると、抱くだけでよかったものだと思う。
しかしこの助言もどうだろうか。せめて、
「おいしいやつはおいしいよ」
とでも言ってくれたなら、殺意を抱かずに済んだのだが(不幸を願うくらいで済んだはずだ)
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「うまいの食ったことある?」という助言が気に入らないのは、それが1つ先回りした助言だからだろう。つまりこれは、ぼくが美味しいのを食った結果それを嫌いになった、という可能性を含めて聞いているのだ。ふざけるなと言いたい。
ぼくは、その食べ物を嫌いだと言っているのである。食べ物が嫌いだと言う時、大抵の場合は「まずい」からだろう。「うまいけど嫌いだ」と言うのでは訳がわからない。そんな人は、嫌いだとでも言えば、それを無理やり食わせてくれる人が現れるとでも思っているのだろうか。「まんじゅうこわい」のようにいけばしめたものである。
うまいのを食ったことがあれば、嫌い(まずい)などと言わない。なので、「うまいの食ったことある?」と聞くのはおかしいし、これでは、殺意を抱かれても仕方ないのだ。こんな事を言う人が今も生きているとしたら、たんに運がいいだけであろう。もし、イライラしている時にこれを言われて、近くに灰皿があり、かつ相手が後ろを向いていていたとしたら、その上火曜サスペンスであったなら、実際に殺されているところである。
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助言に対して、もしぼくが「うん。食べたけどダメだった」と言えば、「それなら仕方ないけどね」とでも言うつもりなのだろうか。
この「仕方ない」というのは、「味覚の違い」に対しての諦めにも見えるが、一方、「本当にうまいものを食ってないくせに、食わず嫌いの石頭め」という意味にも聞こえる。この点が殺意を抱かせるのだろう。
何か食べ物を「嫌い」と言ったとき、うまいもの(一般的にうまいとされているもの)を食って嫌いになったのか、たんにまずいものを食べて嫌いになってしまったのか、判断がついていない場合がほとんどだ。少なくともぼくはそうだ。それなのに、「うまいの食ったことある?」と聞かれるのである。
やはり飯の恨みは怖いのかもしれない。まるで自分の親を馬鹿にされたかのように「その飯の本当の姿を見たことがあるのか」と問うてくるのだ。

聞いた相手は、その食べ物を「うまい」と思って食っているのだろう。しかしそれが「真にうまいもの(全ての人に対してうまいものを食ってうまいもの)」を食ってそう思っているのか、ただ単に、その人に対してうまかったのかはわからない(誰にも分からないだろう。「味覚の違い」という概念事態、そこから生れたのかもしれない)。
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やはり、食い物のことで真実に迫る質問をされたことが頭にきたのだ。詳しく話し合う気などなかった。飯くらいなら馬鹿にしても構わないと思って「何々が嫌いだ」と言ってしまった。神様を馬鹿にするようなものである。
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これを書いているうちに、どんどん心が狭くなっていくのが実感される。あの助言に悪気は無いのだ。だだ、うまいものを教えてあげたいという一心で言ってくれているのだ。そうに違いない。そう思い込まないとまた殺意を抱きそうなのである。