2004年夏

実家に帰ったことを書こう。
研究室の作業がかなり片付いたので、つまり、やることがなくなったので、実家に帰ることにしたのだ。「片付いた」というのは、その作業の期限をみこしてのことなので、まだやろうと思えば続けられる作業ではある。しかしまだ期限がかなり先であるので、やらないのだ。それを「片付いた」という。つまり僕たちは、期限ぎりぎりまで完成させる気がない。そのため、今作業をやり続けるのは効率が悪い、と判断している。この判断はかなり強固であるので、表面上の僕がやる気を出そうとしても、無理である。いつも負けるのだ。ので、近頃では勝負することを諦めている。
とにかく、そういう理由で、僕は暇をもらうことにした。でも、斎藤君とミドリ君はずっと大学へ通うらしい。斎藤君は「集中講義があるし、どうせ暇なので僕らはやりますよ」と言っていた。僕もどうせ暇なのだが、きっと、帰省することが、彼らより僕の方が楽しいのだろう。
斎藤君になにか、やることの指示を出しておこうと思って、メーラーを立ち上げたのだが、特に何も言う必要が無いことに気が付いて、「何かわからないことがあったらミドリ君に聞くなりなんなりしてください。」という訳がわからないことを書いて送ってしまった。わからないことがあったらどうするかなんて、斎藤君に言うべきことではない。彼なら本を読むなり誰かに聞くなりして、解決するはずだ。僕にメールを出すか、電話をするかしてもいい。このメールを出してから、出すべきでなかったと思って、一瞬訂正のメールを送ろうかと思ったのだが、やめた。どうでもいいことほど、訂正する気にならないものだ。
何かを人に言って、それが聞き間違えられたときなんかも、それが下らないことだと訂正する気にならないものだ。例えば前に、
「ミドリ君、ドア閉めて」
と言ったら、ミドリ君は資料の棚の戸を占めた。僕は外がうるさかったので、部屋のドアを閉めてもらいたかったのだが、「そこじゃなくて部屋の・・・」とは言わなかった。それほど閉めてもらいたくはなかったのだ。つまり、どうでもよかった。ミドリ君も、「しめて」の部分にだけ反応して、自分の1番近くにある開いているものを「閉じた」のであろう。無視されるよりはましだったかもしれない。
とにかく暑いので、お互い力を消耗したくないという意志が働いて、いろんなものがどうでもよくなりがちである。

話がそれたのだが、僕は実家に帰った。
久し振りにバスに乗ったら、だいぶ乗り心地が悪くてびっくりした。電車の良さに慣れてしまっていたからだろう。