4

逃げる事はできたかも知れない。叫びながら外へ出れば、近くの人間が異常を感じて様子を見にくるだろう。板倉はワンルームの真ん中に居た。すぐに刺される距離ではない。それでも千賀子は、黙って板倉の言うとおりにした。 それは、ナイフを見たことによって思考停止状態に陥ったと言うよりも、千賀子が板倉に対して感じている後ろめたさのためだったのかもしれない。

―――
千賀子は板倉との距離を大胆に詰めた。ヤモメも遅れて千賀子に並ぶ。
「刺さないと思った?」
その言葉に千賀子が反応するのと同じく、板倉の右手が千賀子の腹にゆっくり吸い込まれた。
「ああ・・・」千賀子が声を漏らしながらうずくまる。
「やっぱりお前は俺を舐めてるよ。頭くるなぁ、そういうの。逃げてたら刺さなかったのに。あ、でも、そうなったら追いかけちゃうかも」板倉は声を上ずらせながら言う。「とにかく、距離を詰めて来たら絶対に刺すって決めてたんだよね。だって頭来るでしょう。許せないよ」
千賀子は右の腹を刺されていた。Tシャツがその部分から意外な勢いで紅く染まっていく。それとは別に、傷を押さえている手の間から、血がぽたぽたと板間に落ちた。
尋常な量の出血ではない。にもかかわらず、板倉の右手に握られているナイフにはほとんど血がついていなかった。人を刺しても、すぐに抜けば血はつかないのか、それとも、抜く際に衣服で血が拭い取られたのだろうか。ヤモメは、ナイフから血が拭いさられる様子を思い描き、こんな時に余計な事を考えている自分に呆れた。
だが、ヤモメはようやく正気になった。
ヤモメは、板倉のナイフを見た瞬間から軽い放心状態だった。千賀子が板倉と距離を詰めた時、それに倣ったのもそのためだ。
正気に戻ったヤモメは、千賀子を助ける事に決めた。ヤモメの心は、また、一種の放心状態になる。しかし、今度は自分の意志だ。それならば、ヤモメは本望だった。
「うおおおお」
ヤモメは叫ぶと、板倉にタックルをかました。
板倉はバランスを崩してひっくり返る。ヤモメが馬乗りになる。板倉の右手を膝で押さえる。腕を滅茶苦茶に振り下ろす。「どどどどん!どどどどん!」板倉の頭が板間とヤモメの拳との間で振動する。 板倉が手首をスナップさせる。ナイフがヤモメの太ももに突き刺さる。しかし、ヤモメは手を止めない。
「ちおくしょおおお!!」
板倉が叫びながら右手を往復させる。ヤモメの体から力が抜ける。同時に、板倉が右手を大きく振りかぶる。

ヤモメは、ナイフが赤く染まっているのを見た。

そのナイフが何かに弾かれる。
きぃぃん、という金属音。その後に、どこっ、と鈍い音がした。千賀子が板倉の頭に木刀を叩き込んだ音だった。ヤモメはそれを見届けると、気絶した板倉に覆い被さるように倒れこんだ。

―――

ヤモメが足を引きずって病院から出てくる。
「リハビリが必要だってさ」ヤモメは言う。
「無茶するからだ」千賀子は言う。「まぁ死なないだけ良かったね。私も大した事無かったし」
千賀子は傷を縫っただけで、奇跡的に内臓には損傷が無かった。治療が長くなる分、ヤモメのほうが重症だといえる。
「元はと言えば、千賀子が板倉を舐めるからこうなったんだ」
「それは少し反省している」千賀子が真顔になる。
「千賀子は反省が似合わないなぁ」
「ヤモメは反省が似合うよな」
反省が似合う、という言葉がヤモメの自尊心をくすぐった。
「なに、にやけてるの」千賀子が不信げな顔を作った。
「俺は、反省が似合うか」
「うん。だから、素直に反省すればいいと思うよ」
「難しいことを言う」ヤモメは考え込む顔を作る。「いやしかし、知ったようなことを言う」
「知ったようじゃない。それくらい、知ってる」
「素直に反省の旅にでようかな」
「それ、素直なの」
「やっぱり旅は先延ばしにしよう」
「お、素直になった?」
「足が治るまでは」
「やっぱり、素直じゃないな」

千賀子が投げやりに天を仰いだ。ヤモメもそれに倣う。空は、曇っていた。
「晴天に恵まれず」ヤモメは、ちいさく呟いた。
「意味の無いことを呟くのは気分が良い証拠だ」千賀子が言う。
そのとおりだ、とヤモメは思った。