2.1

千賀子の家に上がると、地べたには習字の道具が置いてあった。
「今からはじめようと思ってたところなんだ」千賀子は言う。
「まだやってたのか」ヤモメは素直に感心した。
「まだって、やるのは時々だよ」千賀子が半紙の前に正座する。「今日は書初めだ」
「そうか。書初めか」
年を越したのはもうずっと前のように思っていたが、まだ1月になってから10日も経っていなかった。
「何を書くんだ」
「今から決める」千賀子が黙った。「上げておいてなんだけど、少し外に行っててくれるかな。これは、一人で書きたい」
「わかった」ヤモメは素直に頷く。「俺もあとで書きたい」
「うん」千賀子が頷く。

ヤモメは今入ったばかりの千賀子の家を出た。回覧版を渡すより少し長いくらいの滞在だった。
今のやりとりで、千賀子に会う前に悩んでいたことが、どうでもよくなった。何を一人で気負っていたのだろう。久しぶりに会ったら何を言えば良いのか?どうでも良いではないか。そんなこと。
弱気な分、事が済むととことん強気になるヤモメである
1時間も経った頃、ヤモメは再び千賀子の家を尋ねた。チャイムを押すと、「開いてる」と言う声が聞こえた。

「なんだこれは」ヤモメはあきれた声を出した。
書初めだよ」千賀子は平時の声で言う。
「だから、なんて書いてあるの」
「決めてない」
「絵じゃないのか。抽象画みたいだ」
「字のつもりで書いたけど」
書初めくらい普通に書けよ」ヤモメは言う。「俺は『日進月歩』と書こうと思っていたけど、これを見て馬鹿らしくなったぞ」
それは、一時間前に見た半紙を十数枚繋げたものに書かれていた。千賀子は字だといったが、何も読めないし、何文字あるのかもわからない。ヤモメは、これは絵と呼ばなければならない、と思った。
千賀子はしばらく黙っていたが、静かに顔をあげると、それをすごい勢いでたぐりよせた。ぐしゃぐしゃにしながらたぐり寄せ、バスケットボールくらいに握りつぶすと、ヤモメに投げて渡した。
「私はあいまいなんだ」千賀子は言う。「あいまいになってしまった」
「俺もあいまいだ」ヤモメは言う。「俺は昔からだけど」
「あいまいなものを、あいまいなまま扱わなければならないのは、それだけ、複雑だからだ」千賀子は言う。「でもそれって、それだけ私が、未熟なんだ」
「それって、複雑なものを抱えてしまうことか。それとも、その複雑なものを、簡単に表せないことか」ヤモメは言う。
「はは」千賀子が笑う。「簡単に表せない方だよ。ヤモメは相変わらずまわりくどいね」
「ひどいな」ヤモメはわざとらしく顔をしかめた。「筆を貸してくれ」
ヤモメは不機嫌な顔を保ったまま、下敷の前に座った。
「紙は?」ヤモメは言う。
「今のでおわりだから、新しいの買ってきてちょうだい」千賀子は冷たく言い放った。