ヤモメ2

ヤモメは千賀子の家の前にいた。
千賀子はヤモメが中学3年の時に引越ししてきた。ヤモメとはクラスが違ったが、ヤモメが通っていた書道教室に千賀子が来だしてから、よく話をするようになった。
千賀子の字は天才的にうまかった。書道教室の先生よりうまいのではないか、とヤモメは思っていた。手本に近いのは、先生の方だろう。だが、千賀子の字には魅力があった。手本に収まらないのびのびとした輝きが、千賀子の字にはあった。

ヤモメは迷っていた。千賀子に会って、どうするつもりなのか。それに、まだなにも成し遂げていないままで、千賀子に会うのが憚られる、という恥かしさもあった。ヤモメは千賀子の家の前で、少しの間、昔のことを思い出した。

―――
「さしづめ、あいつは肉食獣ってことかな」ヤモメは安田を指しながら言う。
「ヤモメはさしづめ何?」千賀子が尋ねる。
「俺は草食動物」
「弱そうだもんねぇ」
「今は弱いよ。でもいつか最強の草食動物になってみせる」
「象とか?」
「象とか、サイとか」ヤモメは続ける。「ライオンでも、象やサイを食べようとはしないだろう」
「うーん確かに」千賀子は頷く。
「今弱いからって、肉食動物に鞍替えしようとしてもダメだ。これはたぶん、生まれつきだ。だから、草食動物に生まれてきたくせに、肉食獣のフリをすると、途端にレベルが下がる。そしてそのまま強くなれない。そういう奴って、居るだろう」
「板倉とか?」千賀子は安田の横にいる板倉を見た。
「うん、そう」ヤモメは軽く頷く。「板倉はあのままだと強くなれないと思う」
「でも前より突っ張ってるし、強くなったような気がするけど」
「それは、肉食獣に鞍替えしたから。弱い肉食獣でも、弱い草食動物よりは強い理屈だ。だから強くなったようにみえる。でも本当に少しの間だけだ」
―――

ヤモメは肉食動物に鞍替えしなかったが、強い草食動物にもなれなかった。

ヤモメは、もう少ししたら自分は千賀子の家のチャイムを押すだろう、と思った。ここに来るのは、決めた事だからだ。 昔からそうだった。ヤモメは、一度決めた事を覆すことはない。 これは、良いことでも悪いことでもそうだった。ヤモメは、一度決めたことは、迷いながらも、時間をかけながらも、いつかはそれをやり遂げた。
この性格は一見、良いように思えるが、苦しさから逃れるための手段でもあった。やると決めたことはやると決めておけば、思い悩まなくて済む。そのために、ヤモメはいつからか、自分のことを、俺はすると決めたらする人間だ、と思うようにした。 だが、そう思い込むことで得られたものはいくつもない。 失ったものは――数え切れない。

もの思いから顔をあげると、千賀子の顔があった。
「ヤモメ?」
ヤモメは固まった。言葉を捜した。
「ああ」ヤモメの口から息のような言葉が漏れた。
「何してるの?上がれば?」
「ああ」
ヤモメは不意の事体を言い訳に、なるに任せた。