引き際

ターゲットを確認した。グレィのスーツに大きなショルダーバッグ。サングラスをかけている。歩くスピードが速い。目的地へ急いでいる?あるいは、何かから逃げている歩き方だ。まさか、こちらに気付いた訳ではない。

「気付かれたんじゃない?」イヤフォンの声は言う。
「いや、たぶん違う」ぼくは言う。「このまま追跡する」

気付かれる訳が無い。リスクの少ない、簡単な尾行だ。もちろんこれには、「この仕事を何年かやっている者にとっては」という但し書きが付く。

ターゲットの歩くスピードが速まる。目的地が近いようだ。置いていかれないように、こちらも歩くスピードを速める。
その時、嫌な感じがした。僅かな違和感だ。
少し考える。そのことに少しメモリを分け与える。違和感の正体はわからない。それでも尾行は続ける。見失うわけにはいかない。
視野の端で何かを捉えた?それとも、ターゲットの動作?わからない。胸騒ぎを抱えたまま、彼を見失わないことに精力を傾ける。胸騒ぎに与えるメモリは最小限でなければならない。

「どうした?」イヤフォンの声は言う。「息が荒いぞ」
「なんでもない。ただ、どうも変だ」
「何が?」
「わからない」
「そういうのが一番危ない」


「いったん引いても良いよ」イヤフォンの声は言う。「もう身元は知れている。またチャンスはある」
「いや、続ける」ぼくは言う。胸騒ぎの正体がわからないままやめるわけにはいかない。それが次のチャンス自体を潰すものかもしれない。


「気付かれたかもしれない」ぼくは、信じていない万が一の可能性を言う。
「それは無い」イヤフォンの声は苦笑交じりに言う。
「さっきと言っていることが違う」
「はは。その調子で続けてくれ。もし何かあれば本当に引いても良い」
「了解」


ターゲットが目的地に到着した。胸騒ぎに与えるメモリはゼロになる。最高の集中を周囲に配る。誰にも見られていない。誰にも気付かれていない。

そう確信した時だった。視野の端で何かを捉えた。その瞬間、嫌な感じで全身が染まった。
腹の底からわきあがってくる後悔、
どうやって逃げるかの算段、
それが見つからないことへの狼狽、
死の覚悟。
そんな、0.1秒以下の、無駄な思考。
そのあとは、地面に横たわる自分のイメージ。
それに支配されたまま、ぼくは動かなくなった。


死んだのか?それとも生きているのか?
「どうかしたか?」イヤフォンの声は言う。
生きていた。
それなら、いつ死ぬ?
もうすぐ?
まだあと?
唇は動かない。喉も閉じている。体なんて、あるかどうかもわからない。
もう死んだ。
死んだも同然だ。
ぼくは死んだ。死んだ。死んだ。


イヤフォンの声は言う。
「お前、まだ生きているのか?」