偽装工作

一度体験したことは忘れられない。どんなに嫌なことでも、どんなに楽しいことでも、「体験した」という事実が確実なものとして刻まれる。 しかし人は、恐ろしいほど大量の事実を抱え込んで、生きていられる。


嫌なことは嫌なことなりに、楽しいことは楽しいことなりに、それを体験した事実は、重く、今の自分にのしかかる。
なぜだろう?
その一つ一つの、その感触、その細部まで、頭の中で再現しようとする、「思い出す」という行為のせいだ。 怖いもの見たさの―――怖いもの知らずの行為。
その最中は、何か大事なものが見つかるかもしれない、という無茶な希望から、あるいは、昔の自分を蔑ろにしていることへの奇妙な罪悪感から、半ば心を麻痺させている。 だからそんなことができる。
しかしその行為は、急に現れる恐ろしい「何か」の前に、即座に停止し、終了する。 「何か」を見ることはない。いつも、「何か」が現れる寸前で思い出すのをやめるからだ。

「何か」とは、思い出に対して今の自分が何か評価を下しそうだ、という予感のことだ。つまりいつも、思い出に(昔の自分に)評価を下す前に、思い出すのをやめてしまう。

そんな恐ろしいことはできない、と思っている。なぜ恐ろしいと思うのか? それを考えることもまた恐ろしい。 自分に弱さに繋がるからだろう。そこがぼくのウィークポイントなのだ。 「鎖の強さは一番弱い所どまり」と言われる。

今はまだそこをつつかないように、遠目から認識して、静かに補強しようとしているのかもしれない。 回りくどくバリアを張り巡らせ、誰にも触らせず、時々ぼくだけが、輪郭をなぞるように、そこに触れることができる。


そこだけだ。そこだけ。
他は、だいぶ強いのだ。


そう言いきかせて、弱い部分はそこだけだと思いこんで、もっと脆い場所にはめもくれず、修理のしやすい部分を、日曜大工のように、工作しているというような気も、少しくらいはするけれど。