なりたい自分

ぼくは過去の総括ができない。たまに試みてみるけれど、うまくいかない。明らかに、まとめたくない、という意図がある。まだ考える価値があると思っているのだ。

高校三年生18歳の頃、ぼくは何を考えていただろうか?進路のことなど考えていなかったと思う。したいことなど何一つ無かった。これは自分のしたいことがわからないというよりも、何をしていても、どこにいても、ぼくはぼくだから何も変わりが無いと思っていただけである。逆に言えば何をしても良いと思っていた。
何をするかより、何を考えるかが大事だった。考えることによって、世界(自分以外の人間)を適切に認識し、自分の位置を知りたかった。

世界と自分は違う。 この違和感は何だろう?
世界はどういう道理で動いていて、自分はどういう道理で動いているのか。 つまり、どのように違うのか。それが知りたかった。
知ることで、自分を正当化してやりたかった。きっと、そういう意図が多く含まれていた。

そのために考え、客観的な視点を獲得しようとした。これには、自分と世界の違いを知りたいという動機に加え、「自分という存在を希薄にしたい」という動機も含まれていた。つまり、自分を特別だと思う心を無くしたかった。

「特別ではない自分」に折り合いをつけるには時間がかかった。今はもうすっかり、ほとんど折り合いがついていて、いつのまにか落ち着いてしまった。
すると考えることも減ってきた。どうも、「自分は特別である」と思うことが、いくらか思考の原動力になっていたようだ(今気づいた)。
考え、客観的な視点を獲得するためには、今一度、自分を「特別な自分」という位置へ置いてやる必要があるかもしれない。今なら意識しすぎず(つまり恥に思ったり、過剰にならず)、過不足なくその位置に立てるかもしれない。いや、もう立っているのか。
たぶん今までは、むやみに世界に歩み寄りすぎたのだな。

「むやみに」というのが肝だ。過剰になり過ぎるのはよくない。
例えば、自分を「むやみに」デリケートに扱っても、実態がわからなくなるだけだ。自分のことを話したくて仕方が無いくせに、結局はぼやかして終っている人っているだろう。

過剰に大事にしたり、過剰に傷つけてみたり。 そういう過程を経て適切に認識するんだろうけれど、ずっとそればかりやっていても仕方が無い。
それを癖にしても仕方が無いじゃないか。癖に成り下がらせない意図が要るんじゃないのか。 その意図が、きっと、なりたい自分なんじゃないのか。

みんな、なりたい自分になるのだ。