猫愛

ある程度言葉に敏感な人が、「愛」などという言葉を違和感なく使える対象は、限られてくる。
ぼくは猫を愛している。
こう言ったとき浮かぶ猫は、猫全体だ。つまり全ての猫だ。自分が飼っている猫のことではない。この飼い猫のことにになってくると、愛という言葉は、ちょっと、使えなくなってくる。つまり、全体、とぼかしてやってようやく使えるといった程度である。
逃げ腰だ。
なぜ逃げるのか。
それは、愛という言葉には、思いだけではない行動を伴う何かが、関係しているからである。愛は「愛する」と言う。すると言ったからには、するのである。つまり責任がある。愛している、と言ったとき、自らに責任を課す言葉が愛という言葉だ。

愛と比べられるのが「好き」という言葉だ。
ぼくは好きなものがたくさんある。つまり、愛と違って、使える対象が山ほどある。
好きは無責任だ。
「好きにして!」とか言うだろう。
好きは勝手だ。
フットワークの軽い感情だ。 すぐに温まったり冷めたり、温度変化が早い。
一方、愛は濡れていて重くて、冷めているのか、それとも熱いのか、よくわからなかったりする感情だ。
「熱くても冷めていても関係なくずっとそれを愛していよう」という心がそれをわからなくさせているのかもしれない。
それが過ぎると、執着になる。

好きと愛の違いより、愛と執着の違いのほうが曖昧で、ずっと近いと思う。