自分に嘘をつかないために自分に嘘をつく

正直者は馬鹿をみるという。
たとえばアルバイトの面接で、「時給が低いのと店員が男ばかりなのが気になるが、ここはひとつ我慢しよう」などと言ったら、落とされるだろう。
場合によっては、「君は正直だな」などと言われ気に入られることもあるかもしれないが、さらに正直を発揮して、「あなたの息は臭すぎる」とか「アタマも禿げ上がっている」などと言った場合、どうなるかはわからない(「正直だな」のトーンが変わる可能性は高い)。正直者が好きだと言って(思って)いる人でも、正直を発揮して欲くない部分があるのが普通だ。
多くの人は、「私はAだ」と信じている一方で、「私はAでない」ということを導いてしまうことも、信じている。つまり矛盾を抱えている。
抱えているものは仕方がないので、それに対処するために、耳を塞いだり、「私はAである」という論理を組み立てたりしている(これは、嫌な言い方をすると、Aを自分の都合のいいように定義するという意味)。


「私はAだ」ということにこだわらないように努める、という方法もある。これはたとえば、優しくない自分に遭遇したときショックを受けないように「私は善人だ」などと思わないようにする、といった努力である。「自己を規定しない」という努力だ。
言い換えれば、「どちらにも振れない」という努力である。なので、「私は悪人だ」と偽悪的に振る舞うこととは違う。偽悪は偽善より偽りが多いので、世間の評判が悪い偽善よりも、個人的には(すべて個人的な話だが)むしろ避けたい状態だ。
悪く振る舞っていることを見透かせながら悪いことをするということは、「実は善人です・・・テヘヘ」という宣言である。なので、実は(たいして)善人ではなかった場合、「悪人のくせに悪人の振りをすることで善人だと思われようとした」ということになり、二重に偽っていることになる。偽善の方がましだというのはこういうことだ。


ぼくは、悪人でもないし善人でもない。そう自分に「言いきかせて」いる。これが、このエントリのタイトルの後ろの方の嘘である。
前の方の嘘は、自分のことを「善人だ」とか「悪人だ」などと思うことを意味する。つまりこのエントリは、その嘘をより避けたいために後の嘘が必要になる、という話だ(ものすごくわかりにくいな)。
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「自己を規定しない」努力により、数年後、「大学生でもないし社会人でもない」といった状態にだけはならないようにしたい、と言っておく。
(今回、文中にカッコが多くて、とてもブカッコウである)