目の前にいる腹を空かせた野良猫にエサをあげるのは簡単だがそれは本当の優しさと言えるのか

葛藤(かっとう)[晴]晴れの日もある
自分語りになってしまったが。
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エサをやらない方が将来的には猫のためになるのだとしたら、その方が優しいだろう。そして、その方が「確実に」猫のためになる(将来的な生存確率が上がる、など、つまり「死ににくい」という意味だが)、という統計のようなものがでていたら、ぼくは野良猫を見てもエサをあげるようなことはしない。
が、それが、「今ぼくがエサをあげなかったせいでこの猫は死んでしまうかもしれない」、といった可能性をも否定するようなものでなければ(そんなものはありえないだろうが)、ぼくはいつだって、野良猫にエサをあげると思う。
つまり、優しくなくても、自分の「あげたい」という気持ちを優先するわけだ。
たぶんこれは、猫に対しての優しさを最大まで誠実に行なおうとすると、自分に大きな無理が生じるという予感から、そうしているのだと思う。
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(追加)
何が優しくて、何が優しくないかは、何に価値を置くかで決まる問題だ。そしてその価値とは主観であり、押し付けである(優しさの押売り、などと言われることもある通り)。
例えば、ぼくがエサをあげないことで野良猫が死んだとしても、ぼくのしたことが「優しい」と評価されることだって、十分ありえるだろう。野良猫の野性の心を優先した場合、そう評価されてもおかしくない。これは、誇りある死をくれてやった、ということになるからだ。
これは極端な例だとして、優しくあろうとするのは難しい、と思う。