子供の忍耐力が落ちたように見えるのはなぜだ

本日の読売新聞。
「小学生の校内暴力最悪」という見出しで、『校内暴力の件数が1997年度の調査開始以来過去最悪となった』ということが書かれており、続きに、『それの原因について、文科省児童生徒課は「忍耐力コミュニケーション能力の足りない児童が、自分の気持ちを言葉で表現できず、暴力に走るケースが多いようだ」と分析。』とあった。
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忍耐力・コミュニケーション能力が足りなくなった、なんていうのは、一体どういう分析なのだろうか? こんなのは、結果から推測したごく短絡な感想だけを述べているに過ぎない。もっと、なぜそうなったのかをと考えなくてはいけないだろう。今の子供はけしからん、と言うだけじゃだめである。

今の社会は、気に食わないものには反発してもいい、という思想が流行なのじゃないのだろうか。個人主義、というのだろうか。自分の責任は自分で取る、「自己責任主義」というのだろうか。そういうものが流行なのだ。
明らかに社会的な原因だ。社会が変わったから子供が変わったのである。そしてそれには段階がある。子供が変わるその前に、まず大人が変わっているのである。それを見て、子供が変わったのだ。そう考えた方が自然だろう。
あるいは積極的に、子供に「変われ」とハッパをかけた大人(親)もいたかもしれない。

「先生だって正しいわけじゃない。間違ったことも言う」
「そんな先生の言うことなんて聞かなくてもいい」


もちろん全て、こういう言葉が悪いと言っているわけではない。ポジティブに働く時だってあるだろう。きっとそれは、元々「先生は正しいんだ」という方向に強いベクトルが向いていた子供へのものだ。
上のような言葉は、先生を疑うことすらできないほど凝り固まった頭への救済措置であるはずなのである。


そんな言葉が、まだ何も固まっていない、先生の恐ろしさ(大人のこわさ)なんて一つもわからない子度に送られている。そうして今のような結果になっている。
本当に憶測だけれども、ぼくはそのように思えて仕方ないのである。