何をもって才能と言うのか

先日はじめて出口調査の調査員をやったわけだが、投票所へ到着するのに手間取る一幕はあったものの、調査自体は全く問題なく完了した。自分はこの仕事に向いているのではないだろうか。できることなら毎週、あるいは毎日でもやりたい(選挙が毎日ないのが惜しいところだ)。
しかしそう思うのは、金銭的にも割のいい仕事だったせいだろう。いくら天職でも、お金がもらえない仕事だったら嫌である。そんな仕事があったとしても、天職と認めないはずだ。
これは、実生活で役に立たない才能を才能と呼ばないのと一緒である。何を天職と言うか、才能と言うかは、その時代の中で役に立つか立たないかが重要なのだ。
例えば、現代でプログラミングの才能のある人はプログラマとして活躍できるだろうが、これが500年前だったらただの人である(もっと前だったらただの猿である)。
現在進行形で、機械で代用が効く作業が才能ではなく「ただの芸」になってしまう例もある。フォント字を書く作業などはそうだろう。そう考えると、いずれ野球選手や中国雑技団もロボットにとって代わられるかもしれない(しかしこれらは人がするという部分に意味を見出すことで生きのこる可能性もある。それが芸の存在理由だからだ)。
そういうことを考えれば、人に上も下も無い、偉いも偉くないも無いということがわかるだろう。すごい人はそのまますごいのではない。ある条件の整った環境の中ですごいのである。つまり、すごくない人も、たまたますごくなかっただけで、別の時代に生まれていたらすごい人だったかもしれないのだ(あるいは、いつの時代に生まれてもすごくなかった人なのかもしれないのだ)。
生まれた時代や環境にかかわらず努力すべきだ、という意見もあるだろう。だがぼくは、生まれるのがあまりにも早過ぎた、と思うことがある。時代がぼくについて来ていないのだ(逆に時代に置いていかれるときは、もっと早く生まれれば良かった、と思う)。


そもそも生まれない方が良かった、という見方もあった。