綿子

「あんたのためや」
それが綿子の口癖やった。


ワシと綿子は18の時に夫婦になった。みんな反対しよった。分かりきったことやった。ワシはちょっとええとこの子で、綿子はそうじゃなかった。この辺は、あまり詳しくは話したくない。家族とはもう縁も切ったし、関係ない。ワシと綿子は、田舎からずっと離れた越後の大きな山の麓に住むことにした。
越後は寒いらしかった。雪も沢山降るらしかった。でも、ワシらの住んでいた方がずっと北にあったから、ずっとマシやと思っていた。
越後に着いた時は夏やった。夏の越後は快適やった。贅沢はできんかったけど、空気もええし、木の実も、魚も、とろうと思えばなんでもとれた。ワシらは田舎にいた時より、ずっと元気やった。夏が終わらんうちに家を建てた。小屋のような家やったけど、十分やった。

しばらくして冬が来た。やっぱり田舎よりだいぶましや、と思った。でも間違いやった。すぐに雪が沢山降った。迂闊やった。ある日、屋根から雪がどさーっと落ちて、戸が開かんようになった。閉じ込められた。三日もでられんやった。死ぬと思った。でも、死なんかった。通りがかりの人に助けられた。五作さんちゅう人やった。


「おおーい、中に誰かおるんかー?出られんのかー?」


五作さんの声が聞こえた時、ワシは力いっぱい叫び返した。その時綿子はぐったりしとった。寝とっただけかもしれん。
とにかく無事に助けられた。五作さんが近所の人を呼んで、みんなで雪をどけてくれた。近所言うてもだいぶ遠かったけど、それからワシらと五作さんの村の人との近所づきあいが始まった。
しばらくしてワシは村の医者の手伝いをさせてもらうことになった。医者は伊作さんちゅう人で、真っ白い髪と髭がぼうぼうのおじいさんやった。伊作さんの手伝いは勉強になった。色んな薬や、人間の体のことを教えてもらった。こんな辺鄙な村やのに、町の医者が尋ねてくることもあった。伊作さんは偉いお医者さんやった。ワシにちゃんと給金もくれた。多くは無かったけど、ありがたかった。

金は全て綿子のために使ったようなもんやった。綿子は本を買った。薬の本、人間の体の本、外国語で何書いてあるかわからん本まで買いよった。ワシは何度か渋った。その度に綿子は言いよった。
「あんたのためや」
何がワシのためや!と思った。でも何も言えんかった。ワシは伊作さんの手伝いが楽しくて、あんまり綿子にかまってあげられんかった。だから、本くらい買わせてやりたかった。でも、何でそんな小難しい本ばっかり買うんやろう、とは思った。「ワシは本なんか読まん」って何度も言うてるのに。
それで、いっぺん娯楽本を買ってやったことがあった、「無駄使いや!」て言われた。「どぶに銭捨てたようなもんや!」て言われた。でも綿子はその本をむさぶるように読んだ。いつか本棚を見たら、その本だけくたびれていた。他の本はきれいなままやった。読んでないのかもしれん、と思った。でも別にかまわんかった。金は惜しくなかった。綿子がおってくれたらそれで幸せやった。
綿子は美人やった。ワシらの家まで村の若者が覗きにやってくることもあった。綿子は何度かそれをワシに訴えたけど、ワシはあまり相手にせんかった。この頃かもしれんなぁ・・・元々近所付きあいが苦手な綿子がますます外にでることがなくなったんは。でもワシは好きにさせといた。食いもんなら医者の伊作さんに毎日分けてもらえるし、綿子はなんもせんでもよかった。
ワシは馬鹿やった。伊作さんとこの手伝いに夢中で何も考えられんようになってたのかもしれん。ワシだけが、幸せだったのかもしれん。
綿子は急に倒れた。ワシが家に戻ったらぐったりしとった。すぐに伊作さんに看てもらった。体の中に悪い腫瘍ちゅうのができているらしかった。もう助からんらしかった。


「うそじゃあうそじゃあ!!伊作さんなら助けられる・・・!!」ワシは泣き叫んだ。
「無理じゃ」伊作さんは落ち着いて言った。まるで枯れ木のようやった。


そのすぐ次の日、伊作さんが死んだ。77歳やった。その頃ワシと綿子は、25歳になっとった。
その日からワシは綿子の看病をしながら、綿子の持っている本を読むことにした。やっぱり医学の本ばっかりやった。知ってる事も書いとったけど、知らんことの方が多かった。とても勉強になった。でもどこにも綿子を助ける方法だけは書いとらんかった。
一冊だけ、外国語で書いてある本だけが残った。金はもうほとんど無くなっとったけど迷わんかった。ワシは辞書を買った。少しずつ訳しながら、外国語の本を読んだ。
びっくりした。体の中の悪いもんは、切って取り出すと書いてあった。でもそれをどうやってやったらいいのかは、どうにもわからんかった。ただ時間だけが過ぎていった。


―――綿子は静かに死んだ。
もうだいぶ弱っとったから、最後に何か言うとか、そういうのは何もなかった。朝起きて、気付いたら死んどった。ずっと見とってあげたらよかったのに、ワシはどこまでも薄情な男やと思った。そして今、ワシは綿子の体を切ろうとしている。綿子を苦しめたもんの正体がみたくて仕方ない気持ちでいる。
抑えられんかった。その日は一日中、綿子の体を切り刻んだ。村の者が覗きにきて、「鬼や」と言ったのが聞こえた。関係なかった。
綿子を苦しめた物の正体はすぐにわかった。それでもワシは切りつづけた。本に書いてあったことを確かめつづけた。人間の体のことが隅から隅までわかるような気がした。
夜になって何も見えんようになってから手を止めた。ワシは汗だくで血まみれやった。鈴虫が鳴いているのがきこえた。夏の夜やった。

―――

ワシは家に医者の看板を出した。ワシが鬼になったことは村中で知れわたっていたから、始めは不気味がって避けられていた。でも、村に医者がいないことの方が困るらしく、だんだんとワシを受け入れてくれるようになった。
しばらくしたら伊作さんの跡を継ぐ形で、家を移ることになった。その時、綿子と住んでいた小屋を燃やした。空気が乾燥していたせいか、良く燃えた。
綿子と家に閉じ込められたことを思い出した。ワシは泣いていた。綿子が死んでから、初めて泣いた。もうすぐ冬になる。