遊びまくりの夏休み

先日、遠くの図書館に2週間おきに通わざるをえなくなっている、と書いた。ところが最近、割と近くにも図書館があることが分かったので、そこに通うことにした(すでに一度行った)。その図書館は、同じく新潟市が管理している図書館で、地区図書館という分類になっている。
地区図書館は新潟市内に10もあり、それらの地区図書館で借りた書籍であれば、どこの(他の9箇所の)地区図書館に返却しても良いことになっている、ということを最近知って、それならばと近くの図書館に行くことにしたのだ。まだ図書館の連鎖を断ち切るには距離が十分ではないが(つまり十分すぎるほど距離があるということだが)、前よりはかなりゆるくなって、より「自分の意志で図書を借りている」という方向へは向かっていると思う。

ここは前の遠くの図書館より蔵書数がやや少ない印象だ。
その気になれば他の図書館から本を取り寄せることも可能だそうだが、まだそれをする必要には迫られていない。

本だが、以前のように、むさぼるように読む、ということがなくなった。
本は割と長いスパンでお腹いっぱいになるのかもしれない。消化が遅い、ということだ。それでもゆるゆると、お腹の具合を見ながら、少しずつ詰め込んでいくことはできる。何のためにやっているのかよく分からないが、子供のころによくやった、底の見えない穴に砂を流し込むような行為と同じだろうか。あるいは、ハムスターのほっぺにひまわりの種がいくつ入るのかを試すのに似ているかもしれない(虐待ではない。彼女はひまわりの種を渡されると際限なく自分のほっぺに詰め込んでいったのだ。最高で47個も入った)。
それか、石ころを蹴るようなものだ。どれくらいの努力で蹴る石を見つけるのか、そして、蹴った石をどれくらいの執念で蹴りつづけるのか、という違いはあるが、そしてそれに説明だって意味だってつけることはできるだろうが、心理学的分析だってできるだろうが、それらは必要ならやればよいし、欲しければ見つければよいことであって、普通、このようなことは「遊び」と称され、その程度の認識で全く問題が無いという決着がついている、と思われる。



今思いついたが、カラオケが苦痛だ、という人は、あの空間(カラオケボックス)の「遊び(ハンドルの遊びとかの遊びという意味。)」の無さが苦しいのではないだろうか。
あの中で遊ぼうなどと思ってはいけない。そうなると、単なる責め苦でしかなくなる。なので、ジムにでも行った気分になるのが良いと思う。力を出し切ると、少しくらい爽快になるし、終わった後で「遊んだ」という評価を与えることができる程度にはなる。
もっとも、遊びというものは全て事後評価だ。それが分からないで、「遊ぼう」などと無茶なことを言ってくる人がいるが、その言葉がどれだけ虚しいか。ぼくはそんなことを言われると、いつも、何かが、がらがらと崩れていくような気がする。
「だいなし!」ということである。
だから誰もぼくと遊んでくれないのか。これはあまりしゃれになっていない。