惚けられると困るが惚れられても困る

休み続きで完全に惚けている。頭の動きが鈍くなっているという感じがとてもする。
例えば、例えが浮かばないことが、例えになっている。具体的にこういう具合だから惚けているのだ、という説明が即座に出てこない。まぁいい。
チェンソーは紐のようなものを引いてエンジンを回すし、プロペラ機もまず人力でプロペラを回してやらないとエンジンがかからない。人間だってそういうものなのではないか。つまり、つまり、つまり、・・・詰まっているようだ。
落ち着いて考えてみよう。人間で言う「チェンソの紐」には何があるだろうか。
「何だろうか」ではなくて「何があるだろうか」、と言ったのは1つじゃなくて幾つかあるだろうという予想に基づいて言ったのだが、今のところ1つも思い浮かばない。これはもしかしたらとても難しい問題なのではないか。
「(思い浮かばないことがあると)難しい問題に違いない、と考える癖があるんじゃないか」という指摘をする人がいたとしたら、実に鋭いと思う。ぼくのことだ。
なんだかエンジンが回ってきたような気がする。


気がしただけだった。それか、出力が足りないようだ。まるでスピードが出ていない。出力自体に問題があるなら、機械の場合エンジンを換えるしかないが、人間はどうしたらいいのだろうか。一生このままというおそれもある。だが将来的に出力が上がる見込みもあるだろう。人間は機械じゃない。人間は「人間だもの」

上の「人間だもの」は、「人間は機械より優れている」という意味で使用しているが、相田みつお本来の「人間だもの」は逆のニュアンスで使われている。しかしどちらにしても、機械(または機械的なもの)のネガティブイメージを強調していることに違いは無い。

あまり関係のない話をする。


「人間は機械じゃない」というのは聞くが「機械は人間じゃない」というのは聞かない。
「あの子はお前の人形じゃない」というのは聞くが「お前の人形はあの子じゃない」というのは聞かない。


「人間は機械だ」と「あの子はお前の人形だ」という文は抵抗無く理解できるが「機械は人間だ」や「お前の人形はあの子だ」という文には抵抗がある(詩的すぎる)。

なぜ人間は機械にもなれるし人形にもなれるのに、機械は人間になれず、人形は人間になれないのか。もし人形の国があったら、そこで人形は、「私はあなたの人間じゃない」と言うのだろうか。

言うのだろう。たんに人形や人間をどう評価するかの違いでしかなかった。

路頭に終わる(徒労に終わるだ。やっぱり惚けている)思考があるが、サイレントヒルのMAPにおける行き止まりを確認していくようなもので、あながち無駄なことだとも言えない。これを無駄だと言うと、何のためにゲームをしているのか分からなくなってくる。