就職活動日記「服装について2」

スーツで街を歩いていると、なぜだか落ち着く。
高校の頃、制服で地元を歩いていた時も、どうやら、この類の落ち着きがあった。あの頃は(今もだが)私服に自信が無かったので、制服が気楽だったのだろう。
制服は、自分がどんな人間なのかを知られないための1つのフィルタになっていた。
制服を着ていれば、私服を見られる心配が無いのに加えて、〇〇高校の生徒(高校生)として見られる。これは大変、自意識の低下に役立った。本当の自分(15歳の男は醜い)を見抜かれる可能性が減るからだ。ぼくは更に美術部に入ったりして、他人の目を、「本当の自分」から、「見られたい自分」の方へブレさせようとしていた。
人がサングラスをしたり、たまに透明人間になったりするのも(ぼくだけだろうか?)そんな動機からだろう。人は、見られたい自分からかけ離れた、本当の自分・本質を見抜かれないために色々と工夫をするものだ。
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どこかに所属するのは気楽なものである。むしろ、所属せずにはいられないと言った方がいい。
所属するということは「自分はこういう人間だと思われたいと表明する」というものでもある。
頭がいいと思われたければ一流大学に入ればよい。センスが良いと思われたければ芸術大学に、真面目に思われたければ公務員、まっとうに働く意欲があると思われたければ就活生、エトセトラエトセトラ、である。働く意欲も就学する気もない人ですら、「ニート」に所属する事で、ある種の表明をし、安心を得ている。人はどこかに所属しないと不安なのだろう。逆に所属すれば安心を得ることができる。
なのでこの間、ライオンに「君は猫科に属する」と教えてあげたのだが、噛みつかれた。恩を仇で返すにもほどがあるが、よくよく考えてみれば、彼は、猫科に属されることが心外だったのだろう。
たしかに、こう思われたいという自分の理想像からかけ離れた場所には、誰だって所属したくないはずだ。
そう考えてみると、頭がいいと思われることに嫌気がさしている大学生(ぼくなど)や、ウンコなんて絶対しないと思われ悩んでいるアイドルもいるだろう。うんこはみんなするものなのに、おかしなレッテルを貼る人がいるものだ。苦悩する側の気持ちを考えた事があるのだろうか。しかし加藤ローサについては、ぼくも考えを保留している。専門家の間でも意見が分かれているそうだし、何事にも例外はある。
スーツの話にしよう。
ぼくはスーツを着ることによって、こう思われたい自分に近づく事ができる。だから気楽なのだ。
だが、着始めはどうもしっくりこなかった。ぼくは他の就活生とは違うんだ、という思いがあり、スーツを着ることによって所属されられてしまう場所に反発を憶えていた。しかしそれも1日だけだった。2日目からはその場所に進んで入り、所属の恩恵をたっぷりとうけた。つまり居直った。そうすると、やはり、自意識が低下し、余計な事を考えなくなった。
余計なことを考えなくなるから、スーツは好きだ。制服も好きだ。