サングラスには憧れなかった

一人暮らしで豆撒きもなんなので、せめて恵方巻で節分気分を味わいたいなあ(と思ってたらもう日付変わっとるがな)。
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全然関係ないが、誰でもメガネに憧れる時期があると思う。
現在メガネをかけている人でも、生まれつき(あるいは物心つく前に)視力が低いせいでメガネを使い始めた人以外は、憧れたことがあるだろう。(生まれてからずっとメガネの世話になっている人が「メガネに憧れる」とは、普通言わない。「メガネに憧れることに憧れる」ならわかるが。もちろんそんな話は聞いたことが無い)。
これには反論もあると思う。
「今までメガネの世話になったことはないが、憧れた事も無い」と言う人や、「大人になってからメガネを使用するようになったが、憧れた時期なんて無い」と言う人がいるだろう。
だが、その人たちは、もしかしたらメガネに憧れている自分に気が付いていないだけかもしれないし、そもそも「憧れ」という感情自体が欠落している人なのかもしれない。それに、彼らが「憧れ」という言葉を、ぼく等と同じ意味で使用してくれているかさえ確かではない(彼らは「憧れる」を「憧れない」の意味で使っているかもしれないのだ)。
これを読んでも、「お前がいくら屁理屈を並べたって、俺は本当にメガネに憧れた事が無いんだよ」と言う人が、この広い世界にはいるだろう。そんなあなたは今回「例外」としたい(何事にも例外はある)。
ちょっと言いすぎかもしれない。
少なくとも、メガネに憧れた事がない人以外は、メガネに憧れた事があるに違いない。断言してもよい。これなら文句無いだろう。まだ文句がある人には、「ぼくはぼく自身、メガネに憧れた事があると確信する!」とでも言っておこうか。どうだ、反論できまい(する気も起こらないだろうが)。
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とにかく、ぼくはメガネに憧れていた。
だいたい小学校から中学校の間だったろうか、メガネをかけている人が羨ましくてしょうがなかった。それは、メガネをかけた自分の姿を見た時がきっかけだったと思う。
なんだかカッコよく見えるのである(元々カッコいいので「更に」カッコよく見えたと言うべきだが)。それに、頭が良さそうにも見えた(実際良いので、「更に」良さそうに見えた。しつこいだろうか)。
なので、たまに友人からメガネを借りては、自分のイケテル姿を堪能していたのだが、本当は借りるのではなく、自分用のメガネが欲しかった。しかしそれは叶わぬ願いだった。ぼくは視力がとても良かったのだ。今も良い。最近計っていないが、両目とも「1.5」くらいあると思う。たぶん。
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視力が良くてもかけられる「伊達メガネ」の存在を知ったとき、すでにメガネへの憧れは消えていた。だがそれで良かったと思う。小中学生が伊達メガネをかけても似合わないからだ。
(そういえば「ちびまる子ちゃん」に、たしかそういう話があった。あれは、メガネに憧れている時期に伊達メガネの存在を知ってしまった不幸例だ)

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今日の名言


しふと 『めがねにめがねえよ』

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