ぼくは剛毛

世の中にはハゲている人がいる。そして、若くしてハゲるのをワカハゲという。ぼくはワカパイ好きだが(「無類の」と言ってもいいくらい)、ワカハゲは御免こうむりたいなぁと思う。
というのも、今日の授業中、ぼくの目の前の席の人がワカハゲだったのだ。正直びっくりした。(あるべきものが)「無い」ということがこれほどの衝撃とは・・・。いや、ぼくが勝手に、若い人の頭頂部はフサフサだと思っているのが悪いんだけども。
まれに黒人(または非常に背の高い人、低い人、野球選手などの有名人、織田祐二など)を見かけてどきっとしてしまうのと一緒かもしれない。要するに、慣れの問題だろう。ちなみに白人は大学にいるし、中学・高校でも何度か接する機会があったせいか、あまりどきっとしない。そういう理由で、どきっとするのを「外国人」とせずに、正直に「黒人」とした。ぼくが田舎者だからかもしれないが、黒人と接する機会は非常に少ないのだ。
話がそれた。
色んな人がいて、色んな頭髪がある。それらはわかっているのだが、どう「わかっている」のかというと、「考えれば(理屈では)そうだと分かっている」ということでしかないだろう。それらは、普段は意識しない事だ。
たぶん、脳味噌の負担をできるだけ少なくしようというシステムが働いているせいなのだろうが、自らの経験によって、例外を決め、それらを普段は意識しないように処理してしまっているのだ(「してしまっている」というのはおかしいかもしれない。必要だからそうしているのだから)。
例えば、「人間は男と女の二種類だ」という処理がされていた場合、オカマちゃんを見るとびっくりするはずだが、オカマという存在を知らなかったわけではないだろう(もちろんそういう場合もあるだろうが)。普段は意識する必要が無いから、脳味噌に省かれているのだ。
だから、その省かれていた例外がいざ目の前に出現すると、ちょっとしたパニックになる。そのパニックを何回も重ねるうちに(何度も接するうちに)、あるいは、オカマちゃんの存在を自分で自分に納得させる作業を繰り返すうちに(自分の息子がオカマだと発覚した場合にこういう作業は必要だろう)、人間は男、女、オカマの三種であるという認識が定着するはずだ。逆に言えば、その認識を獲得する必要というのは、実際オカマちゃんに接しないと生まれてこないものだ。
たぶん、「理屈では分かってるんだけど」というのは、実際には分かっていないという事なんだろう。だからこそわざわざ「理屈では」という限定をつける。
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何を言いたいのか忘れてしまった。そうだ、ワカハゲだ。
ぼくがワカハゲに驚かなくなるには、何度も彼と接するか、そういうシチュエーションを何度も頭の中でシュミレートする必要がある。一番早いのは自分もワカハゲになることだろうが、こればっかりは自分の力ではどうにもならない。神のみぞ知る、といったところだろうか。神様もそんな事いちいち知らないかもしれないが。

(文章がちょっと長くなるだけで無茶苦茶だ。筋道を考えてから書かないとだめなんだろうなぁと思う。やっぱり読みやすい長文かける人は凄いんだ、とちょっとした自己嫌悪。ぼくは出来るだけ短いのにしよう。)