年をとるという事

また3連休だ。
時間はタップリとあるが、小学校時代のように、何をやったらいいかわからず「途方に暮れる」ということはない。その代わりに、今日の夕飯をどうしようかで途方に暮れている。信じられない事に、昨夜でどん兵衛は底をついた(まだあると思っていたら、ぜんぶ空容器)。冷蔵庫の中には調味料しかなく、食料といえば、米とパスタとそうめんと餅と、あとタマネギくらいしかない(何だか沢山あるように見えるが、僕は、肉が無ければ「何も無い」と言っても過言ではないと思っている。ちょっと言い過ぎかも、とは思うけれど)。だから今、今夜はタマネギご飯になるんだろうなぁ、と悲観している。それでも腹が空けば美味しいとは思うのだが。別に悔しくは無い。
途方に暮れるんでも、このように色々考えられる暮れ方ならまだ良い。本当に何もやる事が無くて、「無」の状態になるのが一番困る。小学校の夏休みのほとんどがそうだった。畳の上に1人座り、テレビをつけてみてもつまらない。本棚を眺めてみても、何十回、何百回と読んだ漫画ばかり、かといって新刊を買うお金もない。どうしようもなくなり外へ出かけてみるが、町じゅう(本当は村じゅう)駆けずり回ったあげく、遊んでくれる友達はいなくて、家に戻る羽目になる。その間にエロ本なんかを見つけると、とたんに脳が活性化し、これをどう持ち帰るかの知謀策略、大冒険がはじまるのだが、そんなのは(非常に)運がいい時だけである。たいていは、暇。あんなに毎日「暇」だったのに、「暇」という字が書けなかったのが不思議なくらい暇だった(今なら書けるのかと言われると怪しい)。
なぜあんなにも途方に暮れていたのか。それは、やる事が無かったからだろう。逆に年をとると、やる事が(やらなくてはならない事が)多いから、毎日途方に暮れているわけにもいかない。例えば、一週間後に大学受験が迫っているという時に、「無」の状態の、途方の暮れ方はできない。勉強以外は何をするにしても、やらなくてはいけないことから逃げているという状態になる。つまりは、忙しい。暇が無い、という状態になるわけだ。エロ本を拾っている場合ではない(買えば良い)。
今の僕も、沢山の「やらなくてはいけない事」がある。例えば、卒論、就職活動、提出課題、読みかけの本を読む、風呂に入る、犬の散歩(がしたいなぁと想像する)など、数え上げたらきりが無い(これ以上思いつかないわけではなくて)。だが、今の僕はこれらがあるおかげで3連休を途方に暮れることなく過ごせるのだ。
途方に暮れたくない僕としては、年をとり、やらなくてはいけない事や、しがらみが増えるのは悪くないなと思う(プラス思考っぽい)。
試しに、やらなくてはいけない事を全て無くすとどうなるだろうか。学校を辞めて、本を全て捨て、身なりも気にしない。そして欲を持たず、世間への関心も無い。たぶん、家は段ボール製だろう。最近かなり寒いので勘弁してほしい。やっぱり「やらなくてはいけない事」は必要である