トリビア

トリビアでやっているネタは、ネット上では既出のものが多い、気がする。何を見ても、これはネットで探せばきっとあるのではないかと思ってしまう。デイリーポータブルとかその他ネタサイトでやってるんじゃなかろうか、と思うのだ。別にトリビアの悪口を言っているのではない。むしろこれから誉めることになる。
トリビアに限らず、何かをネタにするというのは、何かを問題化するということだ。例えば僕は、文化の日に間違って登校してしまったという、普通に考えたら実につまらないようなことを問題化し、素晴らしいネタに仕立て上げた(しかし読者からの反響は皆無)。このように、一見つまらなそうに思えることでもそのみせ方によってネタになるのだ。
そう、トリビアは、たとえネタがネット上のものと一緒だったり、似たりよったりだったとしても、その見せかたが違う。この点で、トリビアのことを単純にパクリと言って切り捨てる事はできないのである(誉めた)。
トリビアの意味を調べると、「くだらないこと。取るに足りないこと。雑学的な事柄や知識。」とあった。たしかにくだらない。しかし、こんなくだらないことをこんな大げさにやっている!ところがトリビアの面白さであろう。
たとえば「カラオケボックスで「般若心経」が歌える」というトリビアがあった。どうだろうか、この事実だけ、このカッコ内の一文だけをみて笑えるだろうか。こんなものはまさしく「取るに足りない雑学」である。それこそ、「へぇ」と言って終わりだ。
だがトリビアは、この取るに足りない雑学を笑いに転化したのだ。映像というものはすごい。テレビでこのトリビアを見たことがある人は憶えているだろうと思う。狭いカラオケボックスにお坊さんが並んで般若心境を歌って(唱えて)いた姿を。毎回、よくやってくれるよなと思う。たまに引くこともあるくらいだ。いくらなんでもやりすぎだろ、と思う。何にでも笑いにできると思う根性は下品である。トリビアに求められる事は、やりすぎの一歩手前まで、くだらない事を大げさに面白く見せることであろう。僕がこんな事を言わなくても、それはほぼ成功していると思う。
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トリビアはとても面白いのだが、あの番組のちょっと悲しいところは、ネタの映像が固定化されてしまうところだ。何かを読んでそれぞれ頭に描くものは違うはずなのに、トリビアが提示してくれた映像一つに固まってしまう。トリビアを読んで笑えなかったら、それを元におもしろい映像を作ってみせてくれるのはとてもありがたいのだが、もしトリビアの一文だけで「へぇ」ボタンを連打してしまいそうな面白いものだったら、それぞれの頭の中にどんどん面白い映像が描かれるはずなのだ。それなのに、すぐに映像は流れる。それを見ないほど僕はできた人間ではない。
小説が映画化されるのと一緒かもしれない。そういえば、「あの映画は小説読んでからだとがっかりするよ」というパターンが当てはまるトリビアも何度かある。

ココリコミラクルタイプリリーフランキーが出ている。にやにやしている。何を考えているのだろうか。楽しそうだ。