江國香織『きらきらひかる』

最初に言っておくが、僕は江國香織が好きではない。吉本ばななほどではないが、自己愛の強さというものが遠慮なく前面に押し出されていて、それをかいくぐりながら物語を追っていく事に疲れるのだ。しかし、江國香織の文章に自己愛の強さを見ているのは僕である。だからせめてもの抵抗で、ほとんどが酔った時に江國香織の本は読まれる。そうすると、割とすんなりと物語を読むことができるのだ。
ちなみに今も少し酔っている。これはセルフハンディキャップである。テスト前に、私勉強全然してないよぉ、というのと一緒である。
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きらきらひかる』の主人公「笑子」は、ホモセクシャルの男と結婚した女性である。彼女は情緒不安定で、毎日アイリッシュ・ウィスキーを飲むことがやめられない。自分の事をアルコール中毒ではないかと思っている。
ホモセクシャルの夫「睦月」は妻の笑子とセックスをしない。それはわかっていたことで、そういうことすべてを許しあって2人は結婚した、はずだった。彼氏はいる。
ここからは僕の独断と偏見である。すべてはそうなのだが、そう前置きしないと怖くて言えない、ということがある。
睦月はやさしい。笑子がどんなにわがままを言っても、よほどのことでなければすべてを受け止め、笑子の心を優先する。怒鳴ったり、もちろん殴ったりしない。それは睦月が性的対象として笑子を愛せないから、そのかわりに、ということかもしれない。笑子の気持ちがわかる、と思っている。いわば同情している。
笑子は睦月の心が自分に向く事がないということをわかっているし、睦月に男の恋人「紺」がいるということも認めている。そしてそれらを割り切れると思っていた。睦月の心の素晴らしいところを愛して、一緒に生活ができると思っていた。
しかし、笑子の心は安定していない。すぐに破裂する。性的な部分では自分を愛してくれない睦月に、それ以外の完璧な愛を求める。睦月を困らせる。彼らホモセクシャルを認めて私は睦月と結婚したはずなのに、と自己矛盾が生じる。
笑子の綺麗な世界が壊れる。そこを補正しようと、笑子は人物画に向って話し掛けたり、「紺君の木、お砂糖一つとラム小さじ半分っていう紅茶が一番好きみたい」と言ったりする。
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笑子は睦月や紺やその他友人のホモセクシャルに、性的な意味ではなく、とても愛されている。それはまるで子供のような愛され方だ。それらの愛があるおかげで、終わりは一応ハッピーエンドということになっている。そこが、きらきらひかっている、のかもしれない。
この話に、『きらきらひかる』という題をつけられる江國香織は突き抜けている。
僕は意外に、江國香織のたくらみにはまっているのかもしれない。僕みたいな読み方をしている人たちが最多読者層なのかもしれない。いや、そんなわけはない。もしそうだったら土下座してもいい。あれは目の前に相手がいなくても、参った、といった感じが出る。一人でやったことがあるのでよくわかる。
もし僕が最多読書層だとしたら、世の中から酒が消えたら江國香織も困るだろうなぁと思う。
もっと困るのは水商売だろうが。そんな事を心配してもしょうがない。
ああこの感想文載せるのか。グダグダグダーン!吐きません。

笑子は最終的に、自分を子供にしたのかもしれない。


きらきらひかる
江國 香織

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