たとえば、クラス(小中学校と思ってもらっていい)で決め事をするときに、おおむねそれでいいだろうと言うことで特に話し合いをしないまますぐに決まってしまいそうな時があると、僕はいつも「ちょっとまった」をかけていた。まだ本当にそれでいいのか納得できていないからである。だが、そこから議論をして話し合いを進めていくうちに、やっぱりそれでいいと思う時もあるし、一人で時間をかけてよく考えてみたら、やっぱりそれでいいんだと思う時もある(もちろん納得できないときもある)。僕はそのたび、自分は理解が遅いのだ、と思っていた。みんな「それでいい」ということを瞬時に理解していたので、誰一人反論をしなかったのだ。そう思っていたが、どうやら僕の納得の仕方と違うということがいずれわかった。皆は「それでいい」ということはわかっているが、「どうしてそれでいいのか」はわかっていなかったのだ。
もしかしたら、わかる必要はないのかもしれない。そこはスルーするところだろ、ということかもしれない。だけど僕は自分で理解できるまで何かを納得することができなかったのだ。そう、僕は俗に言う(言うかなー)ひねくれっ子だった。
「ちょっとまった」をかけるのは、僕のわがままである。だから、「ちょっとまった」は、みんなから嫌な顔をされる。僕はそれを感じるたびに、「ちょっとまった」をかける、僕の中での動機が変化していくのを感じていた(無菌室でないかぎりそういう種類の心の変化というのはあるだろう)。
僕は本当に、まだそれでいいのかわからないから、「ちょっとまった」をかけているのだろうか。本当はもうそれでいいってわかっているんじゃないか。ならなぜ「ちょっとまった」をかけるのか。それは、僕がいつのまにか「執着」しているからではないか。何でも、「どうしてそれでいいのか理解するまでそれを許してはならない」ということに執着しているのではないか。
僕は本当にそれを理解したいのか。「ちょっとまった」というスタンスを提示し続けることで、「本当にそれを理解したかった時の僕」をひきずりたかっただけではないのか。心の慣性に従っているだけで、これは単にバランスをとっているだけではないのか。
こうして僕の青臭さは内向きになる。以前の「ちょっとまったの僕」のように、外向きの青臭さならいつか「大人」になれたかもしれないが、内向きの青臭さはいつまでたっても大人になれない。これは花村萬月が『ブルース』で書いていたことだ。