あーあ、今日は祝日ですね。

皆さんご存知かと思うが、今日は文化の日である。だが多くの人は、今日が文化の日だと知っていても、文化の日とは一体なんであるかをしらないだろう。
文化の日とは・・・


国民の祝日の一つで、昭和23年(1948年)に制定された国民のすく実に関する法律によって文化の日とされた。
自由と平和を愛し、文化を薦める。祭日と定められた。これは、昭和21年(1946年)のこの日に、戦争放棄主権在民基本的人権を宣言した新憲法が公布されたが、これを記念して平和への意思を基盤とする文化を発展、拡大させようというのがその趣旨である。
http://homepage2.nifty.com/calendar/11gatu/bunka.html


一行目の「すく実」は誤字だと思うが、それはこの際スルーする。親切な人はHPの人に知らせてあげるといいだろう。
どうやら文化の日とは、自由と平和を愛し文化を薦め、文化を発展させようというものらしい。この祝日に、ただ学校や仕事が休みになるからといって、能天気にワーイと言っているだけの人もいるかとおもうが、反省して欲しい。それは噂によると猿でもできるので、僕ら人間はさらに自由と平和を愛し、どうか文化を発展させて欲しい。これが僕の切なる願いである。
だが、それにしても抽象的だ。なにしろ文化を発展させるのである。一体何をすればいいのかわからないという迷える子羊達が多いことだろう。実は僕もその一人である。メェ。ならいっそのこと、一緒に文化の日に何をしたらいいかを考えようではないか。
「失敗は成功の母」という言葉がある。これは人は失敗を重ねて、その経験により成功に近づくという意味だろう。人類が文明・文化を発展させたのも、たくさんの失敗による経験が役立ったに違いない。そういうわけだ、迷える子羊達よ。今日は失敗をするのだ。それがどれだけ文化を発展させるかわからないが、なにごとも小さな一歩からである。恥じる事は無い。この世で一番恥ずべき者は、一生懸命な者を笑う者である。これは「かずはじめ」先生(代表作『マインドアサシン』)の漫画、『明稜帝 梧桐勢十郎』の梧桐勢十郎も言っていた。
中島みゆきも、「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」と言っていたではないか。後半部分だけ見ると怖いが、どうか気にしないように。
どうだろうか?迷える子羊達よ。成功の母である失敗をする事ができただろうか。「できました!」という人はどうか教えて欲しい。君には「嘘つき!」という言葉を吐きかけてやろう。いいか、失敗とはしようとおもってできるものではないのだ。失敗しようと思って失敗したら、それは失敗ではなく成功である。「先っぽだけ先っぽだけ!」と言ったくせに「ごめん!まちがっちゃった!」って・・・アンタ!それは間違ったのではない。わざとである。つまり、失敗ではなく「せいこう」である。肝に銘じておくように。
しようとおもってもできない事は他に、「うかうかする」などがある。これも「うかうかしたい」などと思って結果的に「うかうかした」としても、それは既に「うかうか」ではない。ウガチャカ!(怒り)
吉田戦車の漫画で、どうにか「うかうかしたい」親父がいて、自分の妻が浮気をしようとしているのを知っているのにそれを止めずにゴロ寝していたら、やっぱり妻が浮気をして、その時「ああ、私がうかうかしているばっかりに妻が浮気を・・・」と念願の「うかうか」ができた話があったが、あれは「うかうか」ではない。失敗も「うかうか」も、それをしてしまって初めて気がつくものである。初めからしようと思ってする失敗や「うかうか」は、失敗でも「うかうか」でもない。前途の通りただの成功である。僕は失敗をしろと言っているのに。ウガチャカ!(激昂)
・・・それにしても「うかうか」という言葉には「うかうか」たるゆえんが「うかうか」という字面にこめられていないので、何回も「うかうか」と書くと「うかうか」が一体なんなのかわからなくなってくる・・・。
―――――――――――――――――――――

今日の僕はというと、失敗を既に一つ経験している。そう、「失敗は成功の母」といわれる、あの失敗である。迷える子羊の先陣を切ったのだ。
なにをしたかというと、僕は大学に登校してしまったのである。登校したのだが、玄関には鍵がかかっていた。そこで僕は気付いた、「ああ、今日は祝日か」と。THE・失敗である。こんなことならもっと長く寝ておくんだったとか、昨夜もっと夜更かしをすればよかったと後悔した。失敗に後悔はつきものだ。この後悔は経験であり、やがて成功の母となる。文化発展の一歩である。
だが僕の今回の失敗は、彼に比べると小さかった。彼とは、僕が肩を落して学校から帰る道ですれちがった息を切らせて走る小太りな彼である。そのときちょうど2限が始まる時間だったので、遅刻しないようにがんばっているのだろう。幸か不幸か、今日は祝日である。遅刻する事は無い。
彼は駅の方向から走ってきたので、たぶん電車通学の人だろう。会話を交わした事は無いが、僕の大学の生徒だ。何度か顔を見た事があるのでわかる。僕は大学の近くのアパートで暮しているからすぐそこに帰ればいいが、彼はまた、一時間に一本の電車を待たなくてはいけない。
ああ、そして彼の後ろからぞろぞろと・・・とまではいかないが、数人の大学生がこちらへやってくる。彼らもまた、さっきの彼同様に、帰りの電車を待たなくてはいけない。間違って登校してしまった人たちが、駅の待合室に集合するわけだ。その気まずさといったらないだろう。なにしろ無人の小さな駅である。
ああ良かった、僕は電車通学じゃなくて。彼らに比べれば僕の失敗など小さなものだ。もちろんそれだけ文化の発展具合も小さい。だが彼らは今回の一件でさぞかし文化を発展させるだろう。彼らの「後悔」の強さは僕の比ではないからだ。「なぜ私は今日という日にかぎってカレンダーを見なかったのか」、こんな言葉が頭をぐるぐると回っているに違いない。僕のようにのん気に、夜更かしができたのにと考えている場合ではない。
彼らは強く「後悔」し、それゆえに二度とこんな事態にならないだろう。いや、こういうのは同じ人が何回も同じ間違いをするものだから、一概には言えない。祝日にカレンダーを見ない人は、普通の日も見ないのである。そもそもカレンダーなんてない。これは僕の事だ。それに僕が祝日に登校するのは今に始まった事ではない。小中高と数え切れないくらいあった。と言っても、祝日の数自体などたいしたものではないので、大げさに言い過ぎかもしれない。といったところで笑点お開きとさせていただく。END