僕がまだヒーローもののスニーカー(というより運動靴、むしろズック)を履いていた頃の話だ。その頃僕は、人はいずれ死ぬのだ、ということを理解した。もちろん「人」の中に自分も含まれる事も理解し、恐怖を覚えた。僕はまだ6才だから、今までの人生を10回繰り返すと60歳か、そうしたらそろそろ死んでしまうではないか、人生は短すぎるではないか。病気になったり、事故や事件にまきこまれて死ぬ事もあるんじゃないか。恐ろしかった。お小遣いをもらうとすぐに使った。それほど何かを買いたいという衝動が強いわけではなく、お金を使わずに死んでしまったらもったいないから、という理由だけで。とにかく、「死はぼくにも訪れる」という事が恐ろしく、そして死ぬ前にやりのこしたことが無いようにしたいと思っていた。死ぬ前に結婚をして女の人の裸を見てみたいとも思った。マセているような気もするが、結婚をしないと女の人の裸を見れないと思っていたところは、子供かもしれない。
お隣の柴田さんが死んだ。親戚の人が死んだ。僕のおばあちゃんのお母さんが死んだ。まだ死の実体を理解していなかった頃の幼い僕は、たくさんの人が亡くなるということをまのあたりにした。子供の僕にとって、亡くなることは「無くなる」ことだった。
人は「無くなる」とお菓子になった。柴田さんが亡くなったよ、と言っておばあちゃんはお菓子を持ってきた。まんじゅうだ。人は死ぬと、菓子になるのだ。親戚の人が無くなったらカステラになった。次の人が無くなるとどんなお菓子になるのだろうかと考えた。
その頃はまだ死というものの実体はわからず、自分がいつか死ぬこともわからなかった。そういう想像をしなかった。物事を関連付けて考える事ができなかったためだろう。
柴田さんが無くなる→柴田さんは人だ→人は無くなる→僕は人だ→僕もなくなる
幼いゆえに、こういうことが考えられなかったのだ。それが、いつからか考えられるようになった。僕もいずれは死ぬ存在なのだ。それを理解した時、僕は死ぬとどんな菓子になるのだろうか、などと他人事のように考える事はできなかった。僕は死ぬ、僕は無くなる。僕が無くなると、目は見えるのだろうか。暗いんだろうか。暗いと言う事もわからないんだろうか。わからないということもわからないんだろうか。僕は有るのだろうか。無くなるんだから、無いんだ。それにしても、僕がいずれ無くなるということは理解できるが、自分が無い状態が想像できない。わけがわからなかった。故に、怖かった。今も少しは怖いのだが、なぜか当時より「死」というものがずいぶん先の事のように思える。あれから10何年も年をとったのにもかかわらず。それはたぶん、やりのこしたことが少なくなったからだろう。
お金も、それなりに使ったし、女の人の裸も、もちろん見た。ちなみに僕は、着衣したまま、という状態に割と興奮する。これを人は「変態」と言うかもしれない。しかし、人間らしくはあるだろう。犬や猿よりは人間らしい。
着衣に興奮するのはおならに幻滅するくらい人間らしいと思う。これは今日の名言として手帳に記しておこうと思う。END