大学

午前10時。集中講義のために早めに登校すると、事務の前で磯貝君を見かけた。
「磯貝君。久しぶり」
僕は彼に近づいて挨拶した。すると磯貝君はこっちを向いて、
「おー!ミドリ君の彼氏だっけ?久しぶり」
と、僕がまるでとんでもなく遠くにいるみたいな声を出した。
「覚えてくれてたんだね。でも彼氏ってのは間違ってるよ」
「そうだっけ?別れたの?」
「いや、もともと付き合ってないんだよ」
「ああそうなんだ。悪いこと言っちゃったかな。ごめんごめん」
と、磯貝君はちっともごめんじゃない様子で謝った。まぁ、僕にとってもちっともごめんな事じゃないからいいんだけど。
「磯貝君、髪染めたね。似合うよ」
前は真っ黒だったのが、まぶしいくらいの金色になっている。それが磯貝君の白い肌と合っているのだ。
「やっぱり?みんなにそう言われるんだけど、俺はさっぱりわかんないからさ。でもお前がそう言うんならそうなんだろうな」
と磯貝君は冗談めいた口調で言った。微笑んでいるので実際冗談のつもりなのだろう。最初は抵抗のあった磯貝君の冗談は、いつのまにか自然に受け入れられ、僕は笑うことができるようになっている。今回もそうだ。僕は自然に頬が緩み、そうして少し不自然に笑い声を出した。本来なら、顔は弛緩するが声をだすほどではない「笑い」であったのだが、そこに少しだけ動機を付け足して声を発するにいたった。もしかしたらこれは余計なのかもしれない。しかし僕は彼の不自由をそこまで深く理解していないので、「一応」という意味でこれをよくしてしまう。まぁ、このことについてはいつか話す機会があるかもしれない。だが、ただそれだけのことでより仲良くなろうなどとは思わないが。
「今日はなんで学校にきたの?」
僕は聞いた。
「えっとね、図書館に本を返しに来た。休み明けでいいやとおもってたんだけどさ、俺が借りてる本を誰かが予約してるらしくて、図書館から催促の電話がやたら来るんだよね」
「そっか。僕まだ時間あるから一緒に行こうか?」
「ううん、いいわ。あ、じゃあ俺の代わりに返してきてくれる?」
「嫌だよ。ここの司書って延滞すると怖いんだ」
本当に怖いのだ。延滞してしまった本を返却した日は、他に借りたい本があっても遠慮するくらいだ。次の日には借りにいくが。
「だから言ってるんじゃん・・・。まぁいいや、さっさと返してくるわ。それじゃね」
「うん、またね」
お別れの挨拶が済むと、礒貝君の肩から「ふっ」と力が抜けたように見えた。そして礒貝君は図書館の方へ向かって歩いていった。いつもの白い杖で一歩一歩これから自分が歩く地面を確かめながら。それにしてはスピードがかなり速いと思った。しかし何度も歩いたことのある道なのであたりまえなのかもしれない。礒貝君の肌が白いので、白い杖はまるで礒貝君の体の一部のようだった、というのは少し言い過ぎかもしれないが、そう錯覚する瞬間があるのは確かだ。
さて、僕は授業まであと30分もある。それまで何をして過ごそうかと考えたときに、一番最初に浮かんだのはもちろん「図書館に行く」であったが、それを一瞬で却下した。礒貝君に、僕が礒貝君を心配してついていったと思われたくないからだ。ふむ、心配してついていくことは明らかに余計なお世話であろうが、この気遣い(なのかは不明)だってそうだろう。しかしやっぱり、1分28秒後の僕は、まだ誰も来ていない教室でつまらない文庫本を読んでいた。