充実

充実している時間というのがある。そういうときは何かに集中している時で、周りの音は無くなって、目は開いていてもどこにも焦点があっていない。その集中から覚めるまでは自分がどこにいるかや時間の流れから自由だ。自分が何者かということからもそうだろう。そういう充実は何ごとにも変えがたいし、また、そういう充実の時間をたくさん過ごしたいと思う。しかし、自分が腐っている時にそういう時間を過ごしている人をテレビや何かで見るといい気はしない。そして、そんな充実に浸っている奴は自己満足で自己完結の自閉人間だ、という評価を下すこともある。その評価は正しいのだと言うことをを実践するために、自分はそういう自閉的な満足を得ないようにしようとし、充実を得られないという事態が生じる。よくない。
と言うわけで僕は、そういう充実に浸りきることを恐れて、また浸りきっている人を心の中では馬鹿にして、周囲をうかがいながら、これくらいなら自己満足人間に思われないだろうというラインを見極めて何かに充実を求めている。これはこれで卑怯だ。よってこれも否定されるべきことであり、そうすると僕が取るべきスタンスというものは一体どういうものなのかと考えてみると、一つには決められない流動的なものだということになった。つまり、常に考えていようということになった。
それもやはり「人の目を気にしている」という状態に違いは無く、その点での弱みは持っている。しかし今の僕は、人の目を全く気にしないというのもいかがなものか、という考えがかなり優勢であるので、極端にならず中庸を目指そうということになっている。
しかし、なぜ「人の目を気にしている」状態を特に理由無く許容したのかを考えると、自分がもっていた(と仮定する)情熱を既に失い、それに伴い人の目を気にすると言う弱さを顕在化させてしまったことへバランスをとるためではないかという答えが出た。
ここまで書いてみて、読んでみて、あまりよくない内容だと思った。つまり、正確じゃない。自分の中で、自己満足のどこがわるいのかという理屈もない。ただ、それを悪い事にしたいという意思が働いただけだ。僕が精神的に腐っていたから。とにかく自己満足は全然悪くは無い。それとこの際「自己満足」の定義はおいておきたい。
でも一つ言えるのは、僕のスタンスの移り変わりは、精神のバランスをとるために行なわれているのだということだ。色々理由をつけてみても、それに尽きる。別にそれがいいとか悪いとかでは全く無いけれども。