実家にいる間、何冊も本を読んだのだが、もう小説はまっぴらという感じだ。
たとえば辻仁成の自伝小説の『刀』。自伝は自伝なのだが小説と言う前提で出しますからね的な本なので、ところどころに創作が入る。その創作は、むりやり挿入したような不自然なものだった。書いている途中に寝たら夢をみたのでついでにそれも書いときますね、といった感じだった。というものの、ときおりでてくる詩なんかはいいものもあって、全体的にそれなりに楽しめた。離婚や出産やマスコミに追われる体験なんかも書かれてたし。というかそれがすべてだった。それを読むためにたびたび挿入される作家の自己愛というべきものに付き合わされた感じだ。
それにしてもこの『刀』は口で伝えたらまず意味が伝わらないだろうなという言葉がかなり多かった。という発見は意識して読んだからからもしれないが、小説というものはこんなものだっただろうかなあ。
こういう本は家でじっくり腰を据えて読むと損した気になる。授業のあいまとか電車の待ち時間にちまちまと読むのがいい。それには文庫じゃないとだめだ。

中島らもも数冊読んだのだが、エッセイ物を選んで読んだせいか、とにかく内容がかぶる。かぶりまくりの読み飛ばしまくりだった。
睡眠薬だかなんだかのクスリでラリってふらふらになった等の体験を書いているものの中で、俺が死ぬときは階段から落ちたりして死ぬんじゃないかと書いてあった。

弟が買っていたので、さくらももこの本を何冊か読んだ。文庫のちびまるこちゃんと、エッセイ一冊。ちびまるこちゃんはおもしろかった。エッセイはおもしろかったけど、家で机に座って読むものではなかった。こういうのは電車の待ち時間か、ブラウザの中で読めればいい。実際ネットを探せばこういうのはいくらでもあるだろうし。エッセイで少し鼻につくのが、「こんな私って一体…」で終らせるのが多過ぎたところだ。あと、こんなこともネタにして私って人生楽しんでますよ、小さな事にも幸せを感じますの、といった雰囲気が全体に漂っていたところも良くなかった。僕がひねくれて読み過ぎなのかもしれない。でもやっぱり、それでいて私はこういう暗いところももっています、などと書かれると、これが私という人間なんですという自己顕示が先に来ている気もする。他の人が書くエッセイだってたいして違いがあるわけでもないのだが。僕がさくらももこを嫌いなのかもしれない。それか女が書くものが嫌いなのかもしれないが。でもやっぱりもう少し客観的な乾いた文章にするべきじゃないか。自分の事を書くという事に少し恥ずかしさを感じて抑制してくれたらいいのに、なんてのも全ての女に言っているような気もするのでそうかもしれない。自分の事は棚に上げるが。

馳星周の『生誕祭』はおもしろかった。小説はまっぴらというのは撤回したい。
何かやりたいと思ってくすぶっている主人公が、「俺は俺の王国を作りたいんだ」と言うバブルの土地転がしで一旗上げようとしている不動産屋と、幼馴染の紹介で出会い、仕事をまかされるようになる。主人公は人をだまして億の稼ぎを得るようになる。正義感の強い主人公は、この世界で働く事で得られる「体温が上がる感覚」という快楽と人をだますということへの罪悪感の板ばさみで悩む。
金とセックスと暴力とドラッグはもれなく出てくる。なんでこんなにおもしろいんだろう。主人公は自分の野心のために、もうもとの世界へは戻れないところへ行く事になるのだが、それにたやすく感情を重ねる事が出来る。逃亡願望かもしれない。