モリスエ

僕は、僕の方を向いているけど僕の目は見ていない、よく喋る女の人を、見つめていた。
「私はね、東大に入学したらすぐにスカウトされたの。それから毎日、こうなの。大学にはほとんど行ってないわ。すぐにやめたもの。用意された服を着て言われたポーズをとって、時には喋ることもやらされたりね。リポーターってやつ?向いてないからすぐにそういう仕事はなくなったけど。だいたい、やる気が無いのよね。3年くらい仕事続けてるけど、まるで成長してないもの。自分でわかるわ。ただ慣れただけ。自分を出すとか、主張とか?そんなものはないもの。」
「泣いてるの?」
「そうよ。涙は毎日でるわ。仕事、終わるじゃない?そうして、家に帰ると、涙が出るの。別に悲しくは無いの。ただ、家に帰る間に、今日した仕事の事を思い出しながら帰るんだけど、そうして仕事のことだけで頭がいっぱいになっている間にいつのまにか家に着いていて、ドアを空けて家の中に入って、バタン、っていうドアを閉める音が聞こえると、催眠術みたいに?それが合図なのね、きっと。涙が出るの。たくさん出るの。」
僕は見つめていた。黒くてびっくりするくらいに長い髪を。嘘みたいに白い肌を。ちゃんと呼吸という機能を備えているのか心配になるくらい美しい鼻を。見るより見られることが明らかに多いだろう瞳を。どのような形が人を吸い寄せるのか知っている唇を。そして涙は彼女の頬を伝って、尖っているけど尖っていないあごから落ちて彼女の胸を濡らす。
「大学に入る前にも何度もスカウトされたの。でもどこにも行かなかった。それなのに大学に入って一度目のスカウトであっさりそこに行っちゃった。なぜかしら。理由はきっと、あなたが思っているとおりよ。それで間違いないわ。普通なのよ、私。それでね、言い寄ってくる男も多かった。そしてそのほとんど全員と関係を持ったわ。この理由もあなたが思っている通りでいいわ。そしてね、笑っちゃうんだけど・・・、自分で自分を笑うってインテリ臭いわね、できればそういうことはしたくないわ。でもこれ、笑うしかないのよ。私結婚することにしたの。」
「誰と?」
「名前は、言っても知らないと思う。その人はね、私が仕事から帰ってきてドアをバタンとしめて泣き始めた時にね、「無理するなよ」って言ってくれたの。うれしかった。でもそんな言葉、前にも聞いたことあるのよ。その人からも聞いたし、他の男からも聞いた。結局、ほしい時にほしい言葉がもらえたってことなのかしらね。お腹いっぱいのときにご馳走だされてもウンザリするけど、本当にハラペコだったら普通のおにぎりだってうれしいものね。あれ、当たり前の事言ってるわね、私。でも全部、当たり前だった。私の人生。」
そう言って彼女は涙をぬぐった。泣き止んだようだ。そして始めて僕の目をしっかりと見つめてくれた。くらくらしそうだ。
「ありがとう。聞いてくれて。」
「うん。またね。」
「またね。」
そういうと彼女はくるっと後ろを向いて、二度とこちらを振り向かないのが明らかにわかる歩き方で歩き出した。彼女には、未練、という言葉が似合わなすぎる。しかし、彼女はこちらを振り向いた。
「ねぇー、昨日彼にねー「モリスエの事が頭をよぎったんだな」って笑いながら言われたんだけど、意味わかる?その時私、皿を洗っていたんだけど、ボーっとしてて割っちゃったんだよねー」
10メートル離れた場所から、20メートルくらい離れていても届くくらいの声で彼女はそう言った。
「わからないー。ごめーん」
僕は嘘をついた。
「ううんー。いいんだー。またねー」
「またーー」
そしてまた彼女は遠ざかる。僕は見えなくなるまで彼女を見る。段差でつまづく彼女が見えた。どうやら、また、モリスエのことが頭をよぎったようだ。