第二回 私=女

私は、併合した。媚びへつらったと言ってもいいだろう。少なくともあの瞬間以前の私なら、今の私をそう評価するに違いない。ということは、私はこの数時間で変わったという事になる。たったあれくらいのことで?少し、自嘲。私は、自分で自分のことを笑うのは、暗いと思う。そういうことをする人間というのは、自己愛が強いのではないか。私にはまだそういうところが、歴然として、ある。
自己愛などという言葉は人の前で口走らないようにしよう。自嘲だけに自重しなくてはならない。これにはさすがの私も笑えなかった。もっとも、口走らないもなにも、人としゃべる機会などほとんどない。いや、だからこそ、その少ない機会が危ないのかもしれない。会話の機会を与えられていない人がたまに喋ると、自分の全てを出そうとしがちだ。あれはあまり、見ていて気持ちいいものではない。
私はどうも、逆説を好むようだ。「いや、だからこそ〜ではないか――――」などという言い回しは、かなり陳腐だ。これを使う時には、よほどの必然性が必要だろう。今の私にはその言い回しを使うシチュエーションが想定不可能だ――――現実に会話をする時には。
どうでもいいこととは、こんな思考をいう。というか、この類の思考は私にとって「どうでもいいこと」というフォルダに入れておくくらいで丁度いいのだ。とにかく、今から数時間前に起こった現象を説明する。本題に戻るわけだ。だがこれから書く事は私が本題だと思っているだけで、読むほうにどう評価するかとは別の問題だ。本当に本題だと思ってもらいたいなら、それしか書かなければよい。
私は、その出来事をきっかけにして、こういう世界があるのだ、と知ることができた。それと同時に、それ以前の私は、すぐに崩壊する自己正当化の壁に囲まれていたのだと気付いた。その壁を自覚するには、私自身に、その壁を良しとしない考えがないといけない。要するに、矛盾を突きつけられた。具体的には、課題の発表会で、私の作成したものの改善点を多く指摘されたり、私の説明の不足が原因で、いくつもの質問をうけた。これだけである。そしてその時私は、笑顔で、苦笑いで、それらに答えた。教官たちは、未熟な私に対して、とても寛大であった。こういう時、優しさが伝わってくるとでも言えばいいのか。とにかく私は、自然にこぼれてくる笑いをおさえられなかったのだ。私は、笑ってよかったのだ。教官たちに感謝する。そしてこれからが楽しみである。
一部の(多くの?)女性は、恋愛話をするときに、本題に入ると恥かしくて話を大幅に省略したり(断片しか語らない)、はやくきりあげたりするものだが、今の私にも同じ現象が現れているように思う。これは、ただの言い訳である。