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 はじめのうちは場面がころころ変わるが、容赦していただきたい。否、もしかしたら終りまで(終わりがあればの話だが)しょっちゅう変わるかもしれないが、物語にこういう手法はつきものだ。いわゆる、「おりしもそのころ」的な手法である。
 このあと(どれくらい後になるかは不明だが)、西之倉大地と永井忠正、そして待ち合わせ三人組(斉藤市太郎、新妻アサミ、安養ミドリ)は合流することになり、しばらく時間を共有したあとで、解散する。今回はその物語を、自分が見聞きしたことと、人から聞いたことに推測による若干の補足(脚色とも言う)を含めながら、わたし西之倉大地が引き続き、記述したいと思う。
 一体何のためにやっているのかは、記述しているうちに明らかになるかもしれないし、記述し終わってから分かるかもしれない。それでも、ずっと分からない可能性のほうが、ずっと大きいと思う。そもそも今の時点では、この物語をわたしが記述し切るかどうかも不明だ。しかしそれは、わたしのやる気次第である(サーヴィス精神とも言う)。書けない、ということは無い。
 書くためには、書けばいいのである。
 書かないと書けない。
 やらないとできない、という真理だ。
 やると決めたことは、すでにできていると見ても良い。
 つまり、書けないということは無い。しかし、書かないということはありえる。それは部分的になのか、途中で書くのをやめるということなのか。どちらにしても、一応の終わりというものは設けようと思う。落ち着く地点、着地点を作るということだ。それで、物語を止める。
 いわば重りである。
 重りとは意味であり、意味をつけるとはそういうことなのだ。
 動いている物にはどうしても注意がいってしまう。だから、それを止めて、目の見えないところへ鎮めてしまえばいい。

 意味は重りでしかない。
 つまり、
 意味があるからするのではない。
 ただ行為だけがある。
 それに意味をつけるかどうかは、また別の話だ。
 つまり両者には関係が無いということ。
 あるとしても、紙とペーパーウェイトの関係でしかない。
 
 もっとも、関係は意味に含まれ、意味は単独で存在している。

 関係の無いものが、さも関係があるかのように、書かれることだろう。
 それはわたしの意思。
 その意思だけが残る。
 それも重り。

 動いていた物が、
 ひとつ、
 止まり、
 見るべきものが、
 ひとつ、
 減る。