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 待ち合わせをしていた。だから会える。

 何時に、どの場所で、という約束があったから会える。

 しかし、それほど厳密ではない。場所も時間も、ある程度の曖昧を許容するからだ。もちろん人間が、である。



 時間と場所が2つの線で、それが交わる地点が待ち合わせ場所だとしたら、その線は太さを持っている。その太さも一定ではない。当然、直線とは言えない代物だ。

 交わった部分が一番太く、そこから離れるほと細くなっていく。

 海中に沈めた網に藻が絡むように、交わった部分に、より多くの曖昧さがくっついてくる。

 汚いけれど、無いと困るもの。

 あまり美しくは無いけれど、優しいもの。

 芸術的ではないけれど、実用的なもの。

 馬鹿にしてはいけないし、排除してもいけない。誰も毛布を馬鹿にはしないし、靴を捨てたりしない、そういうことだ。

 という事にしておく。

 そう思っておく、ということだ。



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 「何をしていたんですか?」 アサミが斉藤の顔を覗き込みながら言った。 「向こうの降り口から出ようとしていたみたいですけど・・・」

 「ああ、そうだね」 斉藤はアサミの視線を無視して答える。

 「それに切符は?乗る時に買わなかったんですか?」アサミは斉藤の顔を更に覗き込む。

 「そういう主義なんだ。うん。そういうことにしてある、というべきか」 斉藤が独り言のように言う。

 もっとも、斉藤は独り言が多いから、何が独り言で何が独り言でないか、という区別はつけにくい。なので便宜上、周りに人がいるときに言ったことは独り言ではない、ということにしてある。これは、斉藤本人ではなく、新妻アサミなどの周りの者がそう判断しているという意味である。

 「それって独り言?」 という確認を省いて、斎藤の言ったことに対しては任意に返事を返してみる、という試みが今のところ成功しているのだろう。斉藤からレスポンスが返ってこなかった場合に初めて独り言だと気付けばよいという風になっているのだ。

 つまり、コネクションを確立しない通信だと思ってもらえば良い。



 「主義って・・・。あっ、もしかしてキセルしようとしてたんじゃ?」 アサミが若干ボリュームを上げて言った。責めるような口調ではない。

 「煙草の?ああ・・・ちがうよ。僕の場合はキセルって言わないんじゃないかなあ」 斉藤は少し考える様子を見せた。もう少しで、左手があごに行きそうだ。更に左腕を右手で支えるとなかなか間抜けな格好になるな、と自覚して斉藤は腕を下ろした。考えるのを止めたサインだ。 「ところで、ミドリさんは?」

 「ええ、さっきH駅に着いたって連絡がありました。わたしもすぐに返事を出したんですけど」 アサミは携帯電話を覗き込む。その画面を開いたまま斉藤見せた 「ほら」



 『さっきH駅に着いた。安養』 と表示されている。



 「そのままだね」 と言って斉藤は目を閉じた。代謝を減らそうという試みかもしれない。

 「でも見たことないアドレスからだし・・・どこから送ってるんだろう・・・」 アサミの声が徐々に小さくなる。

 「そういう時って普通、『今着いた』って言わない?」 斉藤が口を開いた。同時に目も開いた。

 「そうですね・・・。さっき着いて、今はどこに行っちゃったんでしょうか?」

 その時アサミの後ろから声がした。

 「やあ」

 安養ミドリである。

 中途半端な敬礼のポーズ。ジョークのつもりか、遅刻した照れ隠しであろう。彼女にしては珍しいことではある。

 「わぁ!びっくりしたぁ!どこにいたんですか?」 声を上げながらアサミはジャンプして空中で180度回転した。いや、実際そこまでトリッキーな動きはしていないだろうが、そう表現したくなるような動きであった。

 「ネットカフェ。そこからメールした。携帯は忘れた」 安養がつまらなそうに言った。もっとも、彼女がおもしろそうにしているところは見たことが無い。

 「もー、だったらそう書いておいて下さいよ」 アサミが抗議するように言った。だが楽しんでるようでもある。

 いつもそうなのだ。あまり面白くない場合でも、特に自分が責められている時だが、状況を楽しんでいるように見える。安養とは対照的なアサミであった。

 「一応、私が近くにいるってことを知らせておいてあげたんだから、途方に暮れずにすんだでしょう。あなたたちが時間通り来ないのも悪い」 安養が早口に言った。 「とにかく、返事を確認したらそっちに向かえば良かったわけだし」少し怒っているように見える。もしかしたら怒っているのかもしれない。

 「おかげさまで途方には暮れていませんけど、わたし・・・何か振り回されているような気が・・・」 と言いながら頭を揺らすアサミ。 「あ、メールアドレスは?」

 「憶えてる」 自分の頭を指す安養。短髪が少しだけ揺れる。



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 これで、3人がそろった。他にも人間は出てくるが、あまり重要なファクタにはならないだろう。それに、なったらなったで、その時に対処すれば良い。



 ここで3人の簡単な紹介をしておこう。その方がスムーズに行く。これは、薬を飲む前に水を飲むようなもので、いっしょに飲んでしまってもいいけれど、念には念を、あるいは、そういう約束事、もしくは習慣にしてしまえば何の疑問持たないはずだが、この物語の記述者は、まだその段階には来ていない。

 このような弁明が必要なあたり、決してスムーズではない、ということが伺える。







 斉藤市太郎はN市に住むN大学の学生である。前途の通り、コネクションレス型の通信を得意としている。しかしそれは周りが意識していることであって、本人は自覚していない。

 容貌は、指名手配を受けるとしたら、20代前半の男性、中肉中背、などと書かれるだろう。ファッションは、ジーンズに無地のTシャツ。どこにも特徴が無い。初めて会う人と待ち合わせする場合、少し不利である。あとは、このように斉藤という人物を誰かが紹介する場合、少し不都合があるくらいだ。もっとも、彼自信は、自分の容姿が原因で不都合を感じたことは無いだろう。

 髪は目にかからない程度に雑に切りそろえられており、後頭部の形状や襟足を見ても、明らかに自分で切ったものとわかる。それが唯一の特徴であり、彼の外面におけるオリジナリティといえるものだ。これがなければ、「平均」というあだ名をつけられても文句が言えない斉藤であった。

 新妻アサミもN市に住むN大学の学生で、学年も年も斉藤の2つ下になる。以前年をかなり偽って、安養ミドリと西之倉大地(この物語の記述者であるが、後に説明する機会があるかないかは不明。出てくるかも不明)の前に現れたことがあった。その時は、斉藤市太郎の彼女として紹介されたが、それも嘘であった。何故そんな嘘をついたのかと聞いた時、「遊びだ」と答えた。照れ隠しで言ったのかもしれない。

 彼女も斉藤と同じで外面的な特徴といった特徴は無いが、強いて言うなら(強いなくてもいいが)若く見えるということだろう。先日20歳になったと言っていたが、14歳とか、思い切りおまけしても(たぶんおまけしないほうが喜ばれるだろうが)15歳くらいにしか見えない。単に身長が低いということだけではなく、なんというか、意図的にそういうファッション、仕草、あるいは言動をしているとしか思えない節があって、一度はセーラー服を着て出現したこともあった。しかし、外見だけを見た場合(他に見るものは無いが)、普通の15歳という認識で不都合は無いし、彼女を少しでも知っている人は、20歳が遊びでやっているのだ、と認識すれば良いから、今のところ誰にも迷惑はかけていない。ちなみに、髪が馬鹿みたいに長い。これは、重くないのかな、速く切れば良いのに、という意味である。

 安養ミドリは同じくN市に住むN大学の学生で、大学院生である。学部や学科は後で説明する機会があるかもしれないし、無いかもしれない。今後もこのように、必要な説明ならする、というスタンスを貫くと思うが、明らかに不要だと思われる説明も混じることを断わっておく。

 3人の中で安養が一番年上で、背も一番高い。その他は、特徴の無い格好に、少し短めの髪。外面的なこと以外では、かなり特徴的な面もあるが、それは追々、明らかになっていくだろう。





 人物を正確に定義してしまうと、むしろ、適切な認識が不可能になる場合がある。変化を受け入れるスペースは、常に、残しておかなくてはいけない。それでもこのように、簡易的であるが人物の紹介をしたのは、この程度でそのスペースがいっぱいになってしまう訳がないという予想に基づかれたものである。

 もっとも、言葉でいくら説明しても、埋まらないスペースがある。そのスペースの輪郭をはっきりさせていく工程が、適切な認識、というのだろう。



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 「よく憶えてましたね。あんな意味の無い記号の羅列・・・」 アサミが感心したように言う。 「私だって憶えてませんよ」

 「何回か見ていたからね。それに、意味があるかないかは、欲しいか欲しくないかによるよ。意味なんて勝手につければ良い」

 「ぼくはメールアドレスくらいの長さならリズムで憶えますけどね。これも意味なんですけど。あと円周率とかも・・・」 斉藤が目をつぶる 「3.1415926535、ここでブレス、897932384626433832795、ここでピッピーって音が入って、02884197169399375・・・」

 「うわぁなんか、超人っていうか、ビックリ人間・・・?」 アサミが目を回しながら楽しそうに言った。その間、携帯電話を口元に持ってきて何度か開閉していた。まるでそれで息をしているかのように。