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歓びというものは、いつも、より多く求められるものでありながら、ある臨界点を超えると、とたんに煩わしいものに転化する。快楽が少なすぎれば不満が昂じるのに、いったん飽和状態に達すると、快楽そのものが苦痛に変わってしまう。歓喜に酔いしれたあとに訪れる白んだ気分を、悲観にくれたはてに陥る麻痺状態から区別するのは案外むずかしい。 (『モードの迷宮』鷲田清一


 H駅で電車が止まる。 「電車がホームに滑り込む」 という表現を思い浮かべる。
 電車はホームに滑り込む。
 ホームは電車に滑り込まない。
 電車に滑り込むのは、人間くらいだ。その時はもちろん、電車のような優雅さは無い。そもそも滑り込まなくても、基本的にいつだって、人間は無様である。
 何故だろう?
 たぶん、電気で動かないからだろう。



 この駅はたしか、出口が2つあって、片方には駅員がいるがもう一方は無人だったはずだ、ということを思い出しながら、自然な動作を心がけて、無人の方の降り口へ足を運ぶ斉藤であった。
 斉藤の下の名前は市太郎というが、誰も市太郎とは呼ばない。下の名を知っている人間が数えるほどしかいないというのがその原因ではあるが、偶然そうなったわけではなく、彼が意図的に下の名前を教えないようにしているのだ。これが、原因の原因である。
 彼は、彼の下の名を知っている僅かな数名にも「苗字で呼べ」と釘をさしている。
 つまり、誰も市太郎と呼ばないというよりも、呼ばせないようにしている。そういう意図の結果、誰も呼ばないのだ。
 意図といえば、市太郎という名前も、ある意図をもってつけられたのだろうが、そんな意図と全く別のところで、斉藤は市太郎と呼ばれることを嫌悪しているのであった。
 原因はいろんなところに散らばっていて、何が真の原因かなんて、誰にもわからない。そういうものは普通、無いといわれるのに「真の原因は何か」なんて言われたりする。そういう経緯で提示された真の原因は、いくつかある原因の1つだったり、たんにある段階の1つだったりするけれど、それで納得する人がいる。

 そのためにあるのだ。
 その為だけにある、と言っても良い。
 原因なんてそんなものだ。



 斉藤は無人の降り口へ足を運びながら、無意識に考え事をしていた。
 考え事というと大げさになるかもしれない。それに、無意識というのもやはり大げさな話で、すこしは意識があるから、正確ではない。例えば、流れに身を任せている時も、流れに逆らわない意図があるのと同じで、そう仕向けた僅かな意識というものがあるはずだ。
 ということも含めて、つまり平行して、考え事は流れつづける。いつ始まったのかはわからないし、いつ終わるのかも不明だ。
 つまり、遍在しているのだろうか。
 「遍在」という言葉が出てきた時、結局言葉で考えるしかないんだな、という諦めのような感情が一瞬、支配した。



 人間の胴体と足がくっついていなければ、たとえばロボットのように分解可能なパーツだったとしたら、「足を運ぶ」などという曖昧な表現は無かっただろう。もっとも、慣用句というものは全てそういう性質をもっているのだから、こんなのはちっとも新しい発見ではないし、何を今さら、という話ではある。
 意味の無い思考。
 そしていつもの、「じゃあ意味がある思考って何?」という問い。その問いすら無意味だ。もちろん、意味が見つけられないわけではない。どんな思考でも、頭の体操だと考えられないことも無いし、日本語の練習ということにしても良い。それでも無意味にしておくのは、単にそういう気分だから、というだけのことに過ぎない。あるいは無意味にしておこう、という意思がある。つまり、意味があるか無いかなんて、その程度のことだと言える。

 改札には斉藤の記憶どおり駅員はいなかったが、その代わり自動改札機が待ち受けていた。軽く舌打ち。
 賭けに負けた気分だ。まさか飛び越えるわけにもいかない。まだ昼間である。
 夜でも飛び越える気などないのに、そんなことを思ってもう一方の出口へ向かった。
 「N駅からなんですが」
 と正直に申告する。正直も何も、N駅からここまでは2駅しかない。つまり初乗り料金である。そして斉藤は、仮に10駅離れていた場所から乗ったとしてもN駅からと言うつもりだった。いつのまにかそういうポリシィが備わっていた、という説明では不十分だろう。
 彼は、無人駅でなおかつ自動改札機もない駅からなら切符を買わずに乗るし、有人駅から乗るときは初乗り料金分だけを買うようにしていた。理由は色々ある。その気になれば、意味も沢山あげられる。そしてそのどれもピンとくるものではないが、「運を試している」と言うと、少しは気が利いているというか、一番合っているような気がする。



 改札の向こうに、新妻アサミが見えた。斉藤を待っているのだ。

 新妻アサミもまた、苗字で呼ばれるのを嫌悪していた。否、嫌悪という生易しいものではない。それについてはまた、話す機会があるとは思うが、あまり面白い話ではない。つまり、目新しいことでは、決してないということ。



 おさらい
 [別の話]の住人
 新妻アサミ
 斉藤市太郎
 安養(あんよう)ミドリ