とても借りられません

初めてというものは何かと緊張するものだ。
何も、初めて就職する時や、初めて大統領になるときのような重大な時ばかりがそうではない。初めて地下鉄に乗る時だって、同じように「初めての緊張」があるものだ。

今日は、初めて部署を移動する日。
いままで店舗勤務だったのが、本部勤務になった。これからは各店舗をサポートする業務につく。この会社(あるいは業界)では、「店で働いている人が一番偉い。本部に移動が出たら左遷だと思え」というようなことが言われているが、建前である。なので今回の移動は、一応、出世と言っても良いだろう。

さて、本日、本部にきてみたものの、まだ何もわからない。
そう、初めての緊張がどんな初めてにも訪れるのは、この「何もわからない」というところに起因している。初めてなのだから、わからなくて当然だ。つまり、初めてが緊張するのは「初めてだから」ということになる。 なので、「初めての緊張」に対しては普通、処置無しである。初回はとにかく緊張するしかない。
金縛りにあったとでも思って諦めらめてみようか。しかし、金縛りにあったことが無いし、もしそうなってもおそらく抵抗するだろうから、もう、そういうことをまとめて諦めて頂くしかない(自分に言っている)。


一日目の朝は、お互いの簡単な自己紹介が行われ、ぼくにはデスクが与えられた。店舗勤務ではありえなかったことだ。あそこでは、個人で使えるものはロッカしかなかった。ここでは、ロッカの他にこのデスクがぼくの個人的なスペースとなる。

ここでは個人用のデスクがフロアのほとんどを占めている。共用のスペースの方が少ない。
その共用スペースのひとつに、真っ白な机があった。ちょうど、小学生が入学祝にもらうような大きさだ(ただし、余計なものはついていない)。机は、入り口の横に置かれていて、メモ帳やら人形やら文庫本やら、雑多な物置き場になっていた。

一日目の夕方、勤務時間が終った後、その机にある小さな皿を手にとって眺めていると、近くのデスクで作業をしていた若い女性(名前はまだ覚えていない)に話しかけられた。
「何か珍しいものでもありましたか?」
「いや・・・、この皿は何に使うんでしょうか?」
「それは、お菓子なんかを入れたりしますね」
「ああ、そういうことですか」言ってから、頭の悪い発言だと思った。しかし訂正するほどではない。こういうのも失言に入ると思う。
取りつくろうように、ぼくはまた別のものを手にとって聞いた。
「これはなんでしょう?」
「あ、それは猫のものです」
「猫のもの?」
「猫のものです」

―――

数ヶ月経ち、本部勤務にも慣れたころ、新しい社員がやってきた。彼は(男性である)初日の朝、本部の入り口をくぐると、白い机の上にあるそれを目ざとく見つけた。
「あ、これは・・・」
「猫のものです」ぼくは言った。

しかし、あんなものが、猫のものとは。